平成26年(2014年)1月29日、政府は、平成27年(2015年)の国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産登録に向けて『明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域』の推薦書を同機関に提出した。軍艦島は、この構成資産の中に含まれている。
世界遺産に登録される日が少しずつ近づいてきている軍艦島だが、今回は、軍艦島最大の見所である西部地域に入ってみたい。ここは、建物の倒壊の危険があるため、長崎市によって一般の立ち入りが禁止されている場所だ。
現在、この西部地域には、20棟以上の建物が残されている。ひとつの建物の横には他の建物があり、それぞれの建物が調和を持って共存しているようにも見える。軍艦島最大の魅力は、この西部地域と言うことができる。
■重要建築物・日給住宅
その中でも最も重要となる建物は、日給住宅(16~20号棟)だろう。大正7年(1918年)から大正11年(1922年) にかけて建てられた9階建ての日給住宅(20号棟は6階建て)は、当時、国内最高層のアパートだった。鉄筋コンクリート造りの建物の中に一般の木造平長屋を組み込むという発想で造られているために、玄関には土間が設けられている。往時、日給月給をもらう鉱員が住んでいたことから日給住宅と呼ばれていた。
日給住宅には、様々な工夫が見てとれる。建物の南側が吹き抜け廊下となっており、北側はベランダとなっていて、17号棟のベランダには、セットバック方式が採用されている。日照を取り込むための段差が設けられているので、上の階にいくほどベランダが後方に下がっているのだ。このため、夏至の日になると中庭まで太陽の光が差し込んだという。大正時代すでにこのような発想を持っていたことには驚かされる。
日給住宅のすぐ東側にあるのは、そそり立つような岩礁だ。ここには、それぞれの建物を横に結ぶための廊下が設けられている。昭和49年(1974年)の閉山までエレベーターのなかった軍艦島では、この廊下があることによって、階段を上り下りすることなく他の棟に移動することができた。このような廊下は、西部地域のいたる所に設けられている。
面白いのは、日給住宅を西側から見たところだろう。5棟の建物が並んでいるのにも関わらず“立方体”をしているように見える。これは、建物の西側にそれぞれの建物を横に結ぶための大廊下が設けられているからだ。この大廊下の壁は、建物を塩害から守るための役割を果たしていて、台風が接近したときなどは、この壁が堤防を越えてくる高波や波しぶきから建物を守る役目を果たしていた。そして、半地下部分には、海水を逃がすための防潮階が設けられている。
「軍艦島西側の海沿いに建てられている建物は、すべて防潮棟となっています。このような発想は、オリジナルなものなのです。海側にある窓が小さくなっているのですが、これは建物の中に海水が入ってくるのを防ぐために、そのようになっているのです。日給住宅の便所は、海側に設けられています。窓を小さくすることができるからです。日給住宅の半地下部分は、防潮階となっていますが、物置として使われていたこともありました。後には、商店が入るようになりましたが、それは、日給住宅の西側に8階建ての建物(51号棟)ができてからのことになります。その建物が(新たな)防潮棟となったからです」(阿久井喜孝氏/
東京電機大学名誉教授)
平成21年4月(2009年)より観光上陸が解禁された軍艦島だが、残念なことにこの西部地域には、立ち入ることはできない。長崎港から出ている観光クルーズ船からは、辛うじて日給住宅の一部を見ることができる。西部地域には、日給住宅のような貴重な建築物が残されていることは、記憶に留めておきたい。
■文=酒井透:『未来世紀☆軍艦島』(ミリオン出版)が4月21日に発売予定。軍艦島写真集決定版!
※長崎市の許可を得て取材・撮影をしています