【日本怪事件】京大の兄と早稲田の弟が決闘! エリートたちの高すぎるプライドが招いた最悪の結末
【今回の事件 兄弟決闘殺人事件】
兄は、京都大学文学部4年生。弟は、早稲田大学政経学部3年生。昭和44年に起きたこの事件は、エリート街道まっしぐらだったはずの優秀な兄が弟をナイフで刺し殺した「本郷兄弟決闘殺人事件」として、大々的に報道された。
父親は鹿児島出身で、東大卒の自民党代議士、橋口隆。母親は鹿児島の名家の出。兄の順臣(のぶおみ)が生まれたのは、昭和20年1月。弟の和人が生まれたのが、昭和22年2月だ。
童話を好むおとなしい順臣に対して、和人は友達を泣かしたり近所の家にも迷惑をかけるワンパク坊主だった。高校生になると違いは一層際立ちはじめ、和人は空手を習う文武両道の青年であることから、ほとんど勉強しか能のない順臣を見下すなど、家の中でことごとく反目し合った。
昭和38年、順臣は東大を受験するが不合格だったため、留年をして京大に入学。この時、家族の住まいは東京であった。兄弟仲の悪さに心を痛めていた両親は、2人を離したほうがいいと考えて順臣に京大への進学を勧めたのだった。
一方で、和人は、昭和40~42年にわたって3度も東大受験にチャレンジする。「勉強でも兄に勝ってやろう」という魂胆だったようだ。だが、それはかなわず滑り止めで合格していた早稲田大学政経学部に進学する。この結果は、兄弟間における受験戦争では勝ち組といえる。
官僚だった父親が、代議士になったのはこの頃だ。42年1月の衆院選に自民党公認で立候補して当選した。
その年の6月、順臣は大学を休学する。福岡県福岡市宮崎町に下宿し、日本空手協会福岡道場に毎日通って、空手の修行に励むように。同協会の空手名誉五段である父親が「鍛えてやってくれ」と委ねたのだ。ありがたい親心だが、これが結果としてあだとなってしまう。順臣は、父親の期待に応えようと懸命に修行に打ち込み、秋には初段の免状を授かった。
翌43年の春休み、帰京した順臣は街で偶然、和人と出会った。順臣も空手を習得したことで自信を得ていたのだろう。どちらからともなく「空手で決闘しよう」という話になり、上智大学のグラウンドで対決する。しかし、兄は地面に叩きつけられ、弟の圧勝に終わった。順臣は、その結果を涙ながらに父親に報告した。
両親はショックを受けた。それはそうだろう。23歳にもなる兄が、2つ年下の弟と、力まかせの喧嘩をしているのだ。いろいろな意味で心配になるのは当然だ。
順臣は京都に戻り大学に復学する。だが、彼が休学している間に大学の様相は一変していた。この頃、全共闘運動の嵐が、全国の大学で吹き荒れていたからだ。「造反有理」「大学解体」などのスローガンを掲げる全共闘の学生は、ヘルメットを被った過激派スタイルでキャンパスをデモしたり、ストライキという名の授業放棄を行った。京大でも同様なことが行われていたのだ。
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2024.10.02 20:00心霊【日本怪事件】京大の兄と早稲田の弟が決闘! エリートたちの高すぎるプライドが招いた最悪の結末のページです。日本怪事件、本郷兄弟決闘殺人事件などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで