セックスを強要する美しすぎる「発光女」の生霊 ―『いきすだま ~追う女~』

画像はUnsplashAnnie Sprattより

※当記事は2020年の記事を再編集して掲載しています。

川奈まり子の連載「情ノ奇譚」――恨み、妬み、嫉妬、性愛、恋慕…これまで取材した“実話怪談”の中から霊界と現世の間で渦巻く情念にまつわるエピソードを紹介する。

『いきすだま ~追う女~』

 前回から引き続き、関西在住の貴司さんの体験談を綴らせていただこうと思う。

 貴司さんがホストを辞めたのは、だいたい23年前のことだった。教養の高いパトロネスの影響もあり、将来を懸念するようになった彼は、一念発起して専門学校でIT関連の技術を学ぶなどして、25、6歳のとき、昼職に転向を果たしたのだ。

 同時に、前職に就いていた折に縄張りだったエリアから数十キロ離れた都市に住まいを移した。転居したことには二つ理由があった。第一に、職住接近を図るため。そして第二に、夜職の誘惑に負けないために。

 就職したのは中規模の広告デザイン会社で、ホストの方が遥かに実入りが良かった。しかし、決して後戻りはしないと決めていた。元はホストクラブの客だった彼女とも別れ、その他の多くの縁を断って新天地で1年も過ごした結果、貴司さんは、外見といい服装といい、何から何まで、別人のように生まれ変わった。

 努力して手に入れた新しい自分と新しい仕事が、貴司さんは、とても気に入った。

 仕事については、頑張りの成果だけではなく、運も味方した。好運なことに、良い上司と同僚に恵まれた、非常に働きやすい職場だったのだ。オフィスが拠点駅に近い目抜き通りに面したビルの1階にあって、歩道側の壁がガラス張りになっていることだけが、ここの唯一の欠点だった。

 元は車か何かのショールームとして造られた物件だったようで、外から室内が丸見えなのだ。

 初めのうちは、水槽の熱帯魚の如く、往来する人々に観賞されそうでヒヤヒヤした。しかし、暫くすると、たまに下校途中の小学生や幼児が興味深そうな視線を向けてくることがある程度で、滅多に外から覗き込まれはしないことがわかってきて、やがて少しも気にならなくなった。

 正社員として採用されており、貴司さんは当分の間、この会社を辞めるつもりはなかった。

 さて、ここまでが前置きだ。

 頃は2000年。元号に直すと平成12年で、総理大臣は春先までは小渕恵三、4月からは森喜朗、シドニーオリンピックがあり、歌謡曲では福山雅治の「桜坂」などが流行り、2千円札が発行された年と言ったら、当時の時代の空気をなんとなく思い出していただけるだろうか(ある程度の年代以上の方に限られてしまうけれども)。

 尚、カメラ付き携帯電話がブレイクするのは翌2001年のことで、この頃はまだカメラ機能が搭載された携帯電話はほとんどなかった。スマホは当然存在しない。SNSやライブチャットで連絡を取り合うことはまだ一般的でなく、携帯電話で人と交流する手段といえば、声による通話とメールが主流だった。

 貴司さんも二つ折りタイプの携帯電話を持っていた。

 ――マミという女の連絡先をその携帯電話に登録したのは、デザイン会社に就職して半年が過ぎた頃だった。

Image by Dong Chan KIM from Pixabay

 マミは、酒の席で新しい知人から紹介された女だった。アイドルか読モ(読者モデル)のようだというのが第一印象だった。

 22歳の会社員だということだが、素人とは思えぬ華があり、小顔で全身ほっそりとしていた。輝きの強い大きな瞳が印象的だった。年齢よりずっと若く見える童顔で、貴司さんによれば、「一連の出来事のずっと後に、テレビでタレントの中川翔子さんをお見掛けしたとき、似ていると思いました」とのこと。

「容姿だけやのうて、声や喋り方もちょうどあんな感じで……。マミは東京弁を喋る子やったので、そんなところも〝しょこたん〟に似てました」

 彼とマミとは、たちまち意気投合して、その夜のうちに携帯電話の番号とメールアドレスを交換し、すぐにデートの約束を取り付けた。

 そして、ほどなく肉体関係を持った。

 驚いたことにマミは処女だった。キスや抱擁に積極的に応えるようすや、付き合いだして早々にベッドに誘っても喜んでついてきたことから、それなりに男性経験を積んでいるものと貴司さんは勝手に思い込んでいたのだが……。

 思いがけず、初体験の相手をつとめたわけである。

 一夜目の交わりは、ぎこちないものだった。しかしマミは、最中の反応が薄かった割に、なぜか非常に気に入ったようだった。

「ありがとう。こんなにいいものだなんて、知らなかった」

 もっともっとと熱く求められ、貴司さんも得意になって挑みかかるうちに深みに嵌った。何度も達するうちに睡魔に襲われて女体の上に倒れ伏したが、眠りに落ちる直前に、黒い瞳が視界を占めた。

 マミが大きく目を見開いて、間近から覗き込んでいたのだった。

 一瞬のことだが違和感を覚え、真っ暗な穴と化した瞳孔に墜落していくように感じた。

 だが、目が覚めたときには、初対面のときと変わらない、少女めいた可愛らしさを振り撒く、綺麗だが平凡な女にマミは戻っていた。だから、暗い穴みたいな眼、あれは夢だったのだと思うことにして、そして、また挑まれたり挑み返したりしてベッドの上で長い時を過ごした。

 出逢ってから付き合いだすのも早かったが、お互いの欲情に溺れたあげく、同棲しはじめるまでも、あっという間だった。

 マミは、関西圏に住むようになって長いようなのに東京弁で喋り、出身地については語りたがらなかった。

 独り暮らしでも、若いうちは、仕送りされた米や野菜が入っていたダンボール箱が部屋にあったり、会話の中に頻々と親兄弟が登場したりして、実家の影がうかがえるものだ。

 しかし、マミにはそれがなかった。

 中学や高校の同級生の話もしなかった。高卒で働きはじめたと言っていたけれど、愛嬌があって人好きがする外見なのに、特に親しい友だちや仲の良い同僚もいないようだ。

 独りぼっちで、四畳一間の古いアパートに、ほとんど家具も置かずに住んでいた。また、たまたま酒の席で出逢いはしたけれど、お金がもったいないので、ああいう場所には滅多に足を向けないのだと話していた。服も、あまり買いたがらない。

 低収入なのは確か。しかしそれ以上に、何かわけありなことが察せられた。

 だから貴司さんが借りていたマンションの部屋にマミが転がり込んできたときには、快く迎え入れた。家賃や光熱費なども取らなかった。

 つまり、貴司さんの方では、性欲だけが同棲した理由ではなく、彼女を助けたい気持ちもあったのだ。

 だが、マミは違った。

「最初のうちは、僕もマミとするのが楽しくて仕方がなかったから、気がつくまでに3ヶ月ほどかかってしまいました。普通のカップルなら、お互いに休みの日には、映画や演劇を観にいかへん? とか、少し遠出して観光地に行ってみよか? とか……外食しぃへんとか……何やあるでしょう? 家で2人きりで過ごすにしてもテレビを見るとかゲームをやるとか……。ところがマミは、暇さえあればセックスセックスセックス、セックスばっかりで、他には何もしたがらなかったんですよ!」

 可憐な美女が、昼夜を問わず欲情して迫ってきてくれるという、まるでポルノ漫画の設定のような話である。もしかすると、贅沢な悩みと思う読者の方もいらっしゃるかもしれない。

 私も初めは、一体どんな種類の自慢話か、と、嗤いそうになった。

 しかし、インタビューを進めるうちに、想像したのとは全く違う事態だったことがわかったのだ。たとえば、そう、貴司さんは、毎朝、下半身を「襲われて」目が覚めるのが耐え難かったと私に打ち明けてくれた。

 残業して深夜に帰ると、マミが、キャミソールとパンティだけなどといったしどけない姿で待ち構えていることも、喜びから苦痛に、やがては恐怖に転じていったそうだ。

 半年もすると、彼は涙ながらに再三、彼女に懇願するようになった。

「頼むから、僕の意思をシカトしんとくれ! 僕だって疲れて、したくないときもある。僕も人間やねん、僕の気持ちやそのときの気分を尊重してほしい!」

 はっきりと、「こんなのは強姦やで!」とマミに訴えたこともあった。「これはレイプや! やめてくれ!」と。

 けれども、マミは薄笑いを浮かべて、尚も迫ってきた。

「男なのに、女にヤられるわけないじゃない? ほらね? 抵抗してるのは、お口ばっかり……」

 自分が人間扱いされていないことを思い知らされて、貴司さんは深く傷ついたという。

 自己嫌悪に陥りながらも交われていた時期もあった。だが、だんだんと、いくら怒っても拒んでも、へらへら笑いながらにじりよってくる彼女が、それこそ人間ではない、おぞましい化け物のように遂には思われてきたとのこと。

 一緒に暮らしだしたのが5月頃で、その年の暮れには、もう二度と欲情するどころではなくなってしまった。

 帰宅するのが厭で、夜遅くまで外で時間を潰すようになった。ダラダラと残業したり、繁華街で飲み歩いたり、終夜営業のファミレスに居座ったり……。

 家に帰ればマミに襲われ、満足に眠ることも出来ない。

 しかし、何日も帰らないわけにもいかない。ストレスが積み重なり、そのうち遂に風邪で寝込んだ。

 それがまた、地獄の始まりだった。

画像はUnsplashMaru Lombardoより

「私も会社を休んで、タカシくんの看病をするぅ!」

 会社から3日間休みを貰ったと告げるや否や、マミがこう宣言して蒲団に潜り込んできたのである。

 蒲団の中で、下半身をまさぐり、ぬめぬめと絡みつき、吸いついて離れない。

 38度も熱があってもお構いなしだ。まる2日もそんな状態が続いた。

 マミが体から離れるたびに、意識も朦朧となりながら逃れようと藻掻いては、湿った蒲団に連れ戻された。

 殺される、と思った。

 小便をしたついでにトイレに立て籠もることも考えたが……。

「オシッコするの手伝ってあげる」と、マミがトイレの中までついてくるのだった。

 そんなマミにも、慈悲の心がわずかに残っているのか、もしくは死なれては困ると思ったのか、3日目になっても熱が38度から下がらないのを見ると、「お薬を買ってくる」と言って出掛けていった。

 うつらうつらしている耳もとにそう囁いて出ていったのであるが、玄関のドアが閉まる音を耳にした途端、ハッと気がついた。

 ――逃げるんなら今や!

 大急ぎで着替えて必要最小限のものをスーツケースに詰め込むと、タクシーを拾って、会社へ向かった。オフィスの奥に、簡易な仮眠室があった。そこに泊まらせてもらいつつ、今後の計画を立てようと考えたのだ。

 あと1日休むことになっていたから、急にオフィスに、しかも大きなスーツケースを携えて現れた彼に、皆、戸惑った反応を見せた。

 そこで、貴司さんは、まずは上司に、一緒に住んでいる女性とトラブルになって、やむなく家から逃れてきたのだと説明した。

 もっと上手な嘘を吐けるものなら吐きたかったが、頭が回らず、また、恋人と同棲していたことが社内で知られてしまっても、背に腹は代えられない、それどころではないという気持ちだった。

「なるべく早くなんとかしますから、どうか今夜は仮眠室に泊まらせてください」
「それは構いまへんが、ほんまは何ぞ犯罪に巻き込まれでもしたんとちゃうん? いや、凄いやつれようやし、顔つきが尋常やないからね?」
「いいえ、そういうことでは……」
「あ、そう。仮眠室をつこうてくれてもかまへんし、私生活については関知しぃひんけど、はよ解決してな。喧嘩したなら、逃げ出すんやのうて、話し合わなくちゃ」
「それが、全然、話が通じないんです」
「じゃあ、信頼できる人を間に入れたらええんちゃうかな? 相手が何もんにせよ、それしかないよ?」

 このとき貴司さんは、マミと別れようとはっきり決意した。

 再び元の独り暮らしに戻るのだ。完全に関係を断ち切るためには、あのマンションを解約して、他所に引っ越した方が賢明だろう。勝手に解約手続きを進めてしまう手もある。マミは元のアパートを引き払ったが、まだ住民票を動かしておらず、不動産屋にも役所にも、彼女を同居人として届け出ていなかった。

 とは言え、あまり強硬なことはせず、部屋から出ていくように穏やかに説得した方がいい。と、なれば、確かに上司の言うとおり、冷静な第三者に間に入ってもらうのが得策かもしれない。

 そこで思い浮かんだのが、ホスト時代の先輩だった。

「先輩も元ホストやけど、かなりやり手で、引退後は飲食店を何軒か経営してました。引っ越してから間もない頃に何の気なしに近所のバーに入ったら、先輩がたまたま来ていて、ここもうちの店だと。せやから、マミと同棲するまでは、ときどき飲みに行ってましてん。いっぺんだけ、マミを連れていったこともあって……」

 つまり「先輩」はマミと面識があった次第だ。それに彼は、頭が良いばかりでなく、温かな心の持ち主だった。

「昔の仲間とは距離を置きたいと思っていたのですが、先輩だけは特別でした。また会えるようになったことが嬉しかったし、先輩の方でも、何ぞあったらいつでも相談に来いと言ってくれたんです。そういうわけで、きっと話を聞いてくれると思って、会いに行きました」

 貴司さんが期待していたとおり、先輩はマミとの別れ話に立ち会うことを快諾してくれた。

 それが逃げ出した当日の木曜日のこと。

 その晩は会社の仮眠室で寝て、金曜日は仕事を終えると先輩にあらためて相談に行きがてら、店に泊まらせてもらった。

 面白いことに、マミの元を逃げ出した途端、ストレスから解放されたせいか、みるみる体力が回復して、たった1日で風邪が治ってしまった。

 一方、マミは、貴司さんが逃げてから2、3時間後には、会社に電話を掛けてきた。貴司さんは、電話に対応した上司が、自分がまだ病欠中だと嘘をつくのを、そばで聞くはめになった。

Image by Janusz Walczak from Pixabay

「身が縮む思いやった! このままでは、せっかく入れた会社を辞めることになる。そう予感しました。上司は親切で部下思いな人で、社内には僕の修羅場を面白がる雰囲気もありましてんけど……今だけのことだっちゅう気がしぃ、はよなんとかせないけへんと焦りました。せやから、もう、さっそくその日のうちに先輩に電話で話をしたんです。あのときは藁にもすがる思いで……先輩にだけは、マミの異常な性欲や、セックスを無理強いされていたことを告白しました。ええ、思い切って、あけすけに。もちろんごっつ恥ずかしかったんですけど、頼み事をする以上は正直にならなくては、と思って……」

 先輩は、貴司さんから話を聞くと、マミのタレントのようなルックスを思い返したのだろう、「人は見かけによらへんもんやな」と呆れていた。しかし、すぐに「情が濃すぎる女だったんだ」と彼なりに解釈して、こう言ったのだという。

「まるで安珍と清姫みたいやな」

 安珍と清姫の伝説では、清姫は安珍に夜這いを掛け、安珍が逃げる。

 だから先輩は連想したのだろうが、それを聞いた途端、貴司さんは、交わっているときのマミの肌触りを思い出した。と、言うのも、伝説では、安珍に裏切られたと知って川に身を投げた清姫の怨霊が、大蛇に変じるのだ。

 マミは体温が低く、交わりはじめるとすぐに肌が冷たい汗にヌラヌラと覆われはじめた。求められることが苦痛になってからは、その皮膚の感触から、爬虫類をしばしば連想したものだった。

 まだ全身に生々しくマミの記憶が刻まれている。

 安珍は無惨な最期を遂げる。大蛇と化した清姫は、安珍をどこまでも追う。そして、道明寺の鐘の中に隠れた安珍を情念の炎で焼き殺す。

 貴司さんは言い知れぬ寒気を覚えた。

 先輩からマミに電話を入れてもらったのは、金曜の夜のことだった。

 この日、マミの携帯電話の電話番号を会社の方では着信拒否にしてもらった。前日から2、3時間おきに電話を掛けてきていたので、上司と相談して、そうしてもらったのだ。

 仕事を終えるとすぐ、先輩のバーに駆けつけた。マミに電話してもらうにあたり、自分も立ち会うべきだと考えていたのだが……。

「さっき彼女に連絡したよ。おまえが目の前におると、かえってやりづらいような気がしたんや」
「すみません。……で、どうでした?」
「うん。おまえと話させろの一点張りで、こっちの言うことを聞かないから、最後は時刻と待ち合わせ場所を繰り返し伝えて、切るしかあらへんかった。明日でいいよな? こういうことははよ済ませるに限ると思うんや」

 人目がある所がいいからと、場所は駅前のファミリーレストラン、時刻はランチタイムをあえて選んで席を予約したということだった。

 土曜日だったせいか、先輩に指示されて5分ほど遅れて約束のファミレスに着いてみたところ、店内は満席だった。親子連れや学生風のグループ、女性同士の2人組が多い。

 明るいBGMが流れ、食べ物の匂いが充満する店の奥のソファ席で、ハンカチに顔を埋めたマミと、いつもより緊張した面持ちの先輩が待っていた。

「……お待たせ」

 ビクビクしながら先輩の隣に腰かけると、マミが「酷いよ」とハンカチの中から涙声で訴えた。

イメージ画像 Created with AI image generation (OpenAI)

「いきなり出ていくなんて! すっごく心配したんだよ? 熱があったのに、起き出して平気なの?」

 病気になったのはおまえのせいや、と、言い返したくてたまらないのをグッとこらえて、「もう治った」とだけ答えた。

 そこですかさず先輩が、マミをなだめにかかった。

「こいつも急に出ていったのは男らしくなかったと思います。ただ、さっき話したとおり、もうどうしてもあなたとはやっていけなくて、限界やったんやそうですわ。そんな勝手なことを言われても……って思いますよね? でも、こいつはあなたとは別れると決意しているそうやから、無理に引き留めても……」
「引き留めるってなんの話ですか? 私とタカシくんは好き同士なんだから! ねえ、タカシくんは帰ってくるよねぇ?」

 ハンカチを振り捨てて、痛々しいつくり笑いで貴司さんの顔を覗き込んできた、その瞳が、泣いていたとは思えないほど白目が澄んで美しかった。

 化粧したばかりのような、人形じみた綺麗さのある顔だ。相変わらず、テレビタレントのように可愛らしい。

 そのことに、貴司さんは心の底からゾッとした。

 話し合いの席で、先輩が貴司さんを「こいつ」呼ばわりしたのはわざとだった。事前に打ち合わせをしたわけではなかったが、すぐに貴司さんは意図してやっていることだと察知して、調子を合わせた。

「こういうやり方はないだろうと先輩に叱られて、今は反省しとる。でも、すまん。マミとは、どうしても合えへん。急に出ていったのは悪かったけど、もう一緒に暮らせへん。別れよう」
「知らんけど、マンションはこいつの名義で借りとるんやって? 解約の手続きを進める間に引っ越し先を決めてください。家電や大きな家具は、彼女が持っていってくれてかめへんよな? そのぐらいのことはしてあげんと、人としてどうかと思うぞ?」

 これも聞いていなかったが、マミと別れられさえすれば、家財道具など少しも惜しくない。

「うん、もちろんだよ。欲しいものは全部あげるから、許してほしい」

 マミは、「家具なんか、いらない」と頬を膨らませてそっぽを向いてみせた。

 そう言えば、拗ねたとき、マミはよくこういう態度を取った。以前は可愛いと思っていたが、今あらためて見ると芝居がかってわざとらしい。

 キュートな女の子はこうあるべきという理想の型がマミの中にあって、状況に合わせて型を再現しているだけなのでは……。

 今度は髪の毛の先を人差し指にクルクルと巻きつけながら、眉を八の字して悲しそうな顔つきになり、上目遣いに、先輩の反応を観察している。

 ちゃんと哀れに思ってくれているかどうか、見極めながら、演技の匙加減をしているんじゃなかろうか……。

「私が欲しいのはタカシくんだけなんですぅ。彼も私のことが好きなはずだから、相思相愛なのに、なんで応援してくれないんですか?」

 先輩は動じなかった。

「本当に好きな者同士なら、いくらでも応援しますよ」と、爽やかに受けて立ち、「しかし、こいつは、もう気持ちが離れてもぅたそうなんや。価値のわからん男と思って、こんな男はキッパリほかしてしまって、新しい恋人を探した方がええ」と続けた。

 マミはいくらか鼻白んだようすで、ソファに背をつけて先輩と貴司さんを見比べて、「2人とも私の気持ちがわからないのね」と呟いた。

「他の人は要らない。タカシくん、帰ってこなかったら大変だよ?」

 脅すつもりか、と、怯えながら貴司さんは訊き返した。

「大変て、何が?」

 マミはそれには答えず、「無理なんです」と先輩に告げた。

「貴司くんは、私と別れられません!」
「うん、そう思いたいよね? でも客観的には、すでに別れてますよ? マンションから退去する準備を進めてください。何かあったら僕に連絡して。僕からこいつに伝えますから」

 今日はこんなところで、と、先輩が伝票を掴んで立ちあがった。

 ……と、マミは急に携帯電話を弄りだした。メールを書きはじめたようだった。

「では、僕たちは先に失礼します」

 先輩の声が聞こえなかったかのように、マミは携帯に集中していた。

 先輩の後ろについて店から出た途端、貴司さんの携帯電話に着信があった。

 マミからのメールで、「タカシくんが帰ってきたら……をしてあげる」「……をしてほしい」などと、淫靡な妄想が書き連ねられていた。

 文面が目に入った瞬間、羞恥心よりも怒りでカッと頬が熱くなった。

 なんという無礼な、人の心のわからない女なのか。

 先輩が「何?」と訊いてきたので、黙って液晶画面を見せた。

「うわ! ヤバい女やな! 絶対に返信しちゃあかんで? メールは着信拒否にした方がええ。電話もや。とりあえず、急いでこの場を離れよう」

 2人で足早に店から遠ざかり、その後、駅で先輩と別れたのだが、後ろからマミがつけてきていそうな気がして、途中、貴司さんは何度も振り返らずにはいられなかった。

画像はUnsplashmasahiro miyagiより

 この日、貴司さんが向かったのは実家だった。同じ関西圏ではあるが、電車を乗り継いで片道1時間ばかり離れており、滅多に顔を出さなくなって10年余りが経つ。

 18で家を飛び出してから両親との間に壁が出来て、好んで帰りたい場所ではなくなった。

 けれども、今はそんなことを言っている場合ではない。

「すまん。しばらく居させて!」

 と、突然帰って、翌週の金曜日まで、6日間居候した。

 存外、親は嬉しそうな雰囲気で、通勤に時間を取られただけで、思いがけず快適に過ごせた。

 この期間はマミから何ら接触が無かったため、落ち着いてマンションの解約手続きを進めたり、引っ越し先を探したりすることが出来た。

 即日入居できる物件を見つけて契約を済ませると、いよいよ引っ越しという段になり、再び先輩に協力を頼んだ。

 先輩はハイエースを持っていた。2人ばかり、助っ人のあてもあるという。

 そこで、金曜日に会社を早退して、マミが出勤している昼間のうちに、一気に荷物を運び出すことになった。先輩と、先輩の知り合い2人と貴司さんの計4人で素早くマンションから私物を運び出し、ハイエースに積み込んだのだが――。<

「うわぁ! マミのやつ、めっちゃ散らかしてもぉたなぁ!」

 1週間ぶりに見る室内は、空き巣が入った直後のように荒れ放題に荒れていた。

「何ぞ探したんちゃうん? アドレス帳とか、通帳と印鑑とか」
「いえ。大事なもんは全部持って出ました」

 貴司さんには、この部屋の状況がマミの精神の荒廃ぶりを映しているように思われ、胸騒ぎを覚えた。

 部屋から荷物を運び出したことに気づいたら、どう出てくるか……。

 ところで、貴司さんが新しく借りた部屋というのが、また、風変わりな物件だった。部屋自体は8畳の和室に6畳のダイニングキッチン、バストイレが付いた1DKで、何の変哲もない。

 しかし、同じ建物の1階と2階に葬儀社が入っていたのである。

 そのため、相場の半額以下の家賃で即日入居可能だった代わりに、オーディオ類で音を出すことを含めて、騒がしくすることが厳禁とされていた。

 5階建てビルの、2階の半分と、3階から上の全フロアが賃貸マンション。葬儀社の方は、受付と相談室、事務所などは1階に、専用の出入口と直通エレベーターを備えた「ご安置室」が2階にあった。

 葬儀社が何を安置するかと言えば、遺体に決まっている。2階にあるのは、ようは遺体安置室なのだった(不動産屋と葬儀社の社員は「ご安置室」または「お別れルーム」と呼んでいた)。

 この葬儀社では、自宅で通夜を行うのが難しく、小さな葬儀を望む遺族向けに、自社の1室で通夜から湯灌・納官まで済ませて火葬場へ直行する簡易な葬儀プランを設けていたのだ。

 ちなみに、ちょっと調べたところでは、同様の簡易な遺体安置室を設けている葬儀社は多数あった。同じ建物でマンションを経営しているところは見つからなかったが(ここもすでに他所に移転している)。

 貴司さんが借りたのは、よりによって安置室のすぐ隣の部屋だった。

 事前に不動産屋から説明を受けて、納得づくで借りたのだが、引っ越しを手伝ってくれた先輩は「よくもまあ、こないな珍しい物件を見つけたな!」と呆れていた。

 引っ越した当夜は、先輩のバーで手伝ってくれた2人に奢りながら、朝まで先輩たちと飲み明かした。

 深夜、先輩の携帯電話にマミから電話が掛かってきたが、先輩が出るとマミは無言のまますぐに通話を切り、繰り返し掛けてくるわけでも、店に押しかけてくるでもなかった。

 土曜日から、件の葬儀社のマンションで寝起きすることになった。

 会社は休みだったから、朝から部屋の片づけをし、食事は近所のコンビニで買ってきたもので全部済ませて、適当な時間に就寝した。時計を見ることもほとんどしなかった。

 どれほど眠ったかわからないが、おそらく明け方近くなって、息苦しさと共に目が覚めた。

 うっすらと線香の匂いが流れている。蒲団に入ったときには、そんなことはなかった。今日は安置室は使われていないと思っていたが、夜中に線香を焚いているということは、お通夜なのだろうか?

 気になったが、このときはすぐまた眠ってしまった。

 ところが、明けて日曜日の夜も再び、夜中に目が覚めると同時に線香が匂った。

 昨夜のことがあったので、昼のうちに、安置室が使われていないことを確かめていた。しかも寝るまでは、まったく線香の匂いはしなかったのだ。

 しかし、匂う。

 どこから漂ってくるのか。暗い中、蒲団から這い出して確かめてみたら、どうも押し入れの戸の隙間から漏れてくるようだった。

Image by Krzysztof Dzwonek from Pixabay

 ――隙間など、開いていただろうか?

 しっかり閉めたという自信はないが、薄く開けておいた記憶もない。隙間は2センチほどで、奥は黒一色の闇である。

 中から何かが飛び出してきそうな感じがしてきた。それで、バカな妄想と承知しつつも、中に潜んでいる何かに手首をむんずと掴まれないように、素早く戸を閉めると、サッと手を引っ込めた。

 閉め切ってしまえば、なんのことはない、ただの押し入れだ。

 間もなく、線香の匂いも嗅ぎ取れなくなった。

 月曜日の正午すぎ、デスクワークに励んでいると、上司に肩を叩かれた。

「あれ、例の彼女ちゃう?」

 指さす方向を見ると、窓の外に――そう、入社した時分に気になった一面ガラス張りの壁の向こうに、マミがいた。

 左右の掌をべったりとガラスに貼りつけて、こちらを覗き込んでいる。目が合うと、ニタァと笑った。

「可愛い子やな」

 上司がそう悪気なく呟くのを聞いて、呼吸が苦しくなった。

 頭に血が上って外に飛び出し、マミを建物の陰に引き摺っていった。

「痛いじゃない! ……でも、そういう乱暴なのも、好きよ」

 うっとりした声に虫唾が走った。

「ふざけるな! 迷惑や!」
「どこに泊まってるの? なんで帰ってこないの? 服とCDと本が無くなったよ? 泥棒が入ったのかなぁ?」
「僕が取り返しただけや。あのマンションは解約するから、はよ出てってくれ!」
「じゃあ、タカシくんの新しいおうちに行くから、住所を教えて」
「……教えるわけないやろ。もう来るな!」

 突き放して、走ってオフィスに戻った。

 その日は、それだけで、マミが戻ってくることはなかった。退社するときに待ち伏せされることを危惧したが、大丈夫だった。

 だが、翌日の昼になると、またマミがガラスに顔をくっつけてこっちを覗いていた。

 前日のように追い払ったが、その次の日もまた、気がつくと巨大な蛾のようにガラスに張りついていた。

 どうやら、勤め先の昼休みを利用して来ているらしいのだ。

 4日も続いたので、先輩から電話でマミを諭してもらったが、一向に効き目がなかった。

「あれは、あかん。お手上げや! 愛し合ってるのに邪魔しないでくださいって言いよった! 手強いわ。……ジブン、どうする?」

 こうして貴司さんはまたしても、精神的に堪えがたい状況に陥ってしまった。

 葬儀社ビルのマンションの方も、快適とは言いづらい。

 階段や廊下で喪服の集団とすれ違ったり、読経が聞こえてきたり、おまけに、毎日ではないが、かなり頻繁に、壁一枚隔てた向こうに荼毘に付される前の遺体がある次第だ。

 線香の匂いの濃さで、使用中か否かがわかるのである。

 通夜のときは、真夜中に啜り泣きが聞こえてきた。

 また、通夜でもないのに、たまに線香が匂う現象も相変わらずだった。

 押し入れは、あれ以降、二度と隙間が開かないように、つっかえ棒で固定していた。

 マミが日参するに及んで、上司も事態を次第に真剣に捉えはじめた。

 結局、貴司さんは、一時、系列会社に出向させられることになった。

 一時と言っても期限が決まっておらず、不本意ではあったが、断れば辞職させられそうな気配で、逆らうことは考えられなかった。

 幸い、出向先は実家から近かった。葬儀社のマンションは家賃が激安なこともあり、しばらくの間は戻ってきたときのために借りておくことにして、元のマンションの水道やガスなどの解約手続きを済ませた。

「その後も、上司とは連絡を取り合ってました。マミは、僕がいなくなってからも、ひと月ぐらい、会社の周りに出没しとったそうです。急に来なくなったと報告があり、それと前後して、先輩からも、マミの携帯電話が繋がらなくったと連絡を貰いました。

 マンションの退居日が迫ってくると、先輩はわざわざ、その前に掃除する必要があるやろうと考えて、マミの携帯に電話してくれたのだそうです。はい、マンションから出ていったかどうか確かめるために、ですわ。ところが、何度掛けても『お客様がお掛けになった番号は電源が切れているか現在使われていないため……』ちゅうアナウンスが流れるばかりや、と」

 そこで、貴司さんは、恐々とマンションに行ってみた。

 マミがいた痕跡すら残っておらず、もぬけの殻だったそうだ。ざっと掃除もされていた。

「あの散らかりようからは想像できひんほど、サッパリしたようすになってましてん! 家具や家電も無くなってたんで、ああ、マミは遂に納得して出ていったんだなぁとホッとしたことを憶えとります。せやけど元の会社に戻れたのは、およそ半年後の、お盆の休み明けでした」

 葬儀社のビルのマンションは、本当はいけないことだが、春先から先輩の知り合いに又貸ししていた。

 何も変わったことは起きなかったと聞いて、安心して部屋を引き渡してもらったその日の夜、異常な寒さで安眠を妨げられた。

 真夏ではありえないことだが、震えるほど寒い。

 エアコンの温度は27度に設定していた。枕もとに置いておいたリモコンを操作して冷房を切ってみたが、そういう問題ではなさそうだ。まるで冬の戸外のような凍れ方なのだ。

 おかしなことはそれだけではなかった。

 テレビの画面が砂嵐になっていた。

イメージ画像 Created with AI image generation (OpenAI)

 番組放送終了後の、あの特有の耳障りなノイズ(砂嵐とは、深夜の番組終了後にザーッという雑音と共にテレビ画面に映る白黒のノイズのことで、2012年にアナログ放送が停波するまでは一般的に見られたが、現在の地上デジタル放送には存在しない)に神経を搔き乱される。

 音と画面のちらつきがうるさくて寝ていられないのだが……。

 点けっぱなしにして寝た覚えがなかった。そもそも、今夜はテレビを見ていなかったのだ。

 そのとき、ふいに押し入れの隙間のことが頭をよぎった。

 半年以上前、入居したばかりの頃に、夜中に目が覚めると、閉めていたと思った押し入れの戸が細く開いていたことがあった。隙間が開かないようにつっかえ棒をしていたことを忘れていた。ここに帰ってきたときに思い出さなかったのが悔やまれた。

 そのとき、ガサッと、砂嵐のノイズとは異なる音が聞こえてきた。

 押し入れの方から、だ。

 ――誰か、いる。

「マミなのか?」

 呼びかける声が震えて、か細い。尿道がチクチクして、漏らしそうだ。線香が匂ってきた。

 ――お通夜をやっとるんや! 隣の安置室で死んだ人の遺族が物音を立てたんや。テレビは寝ぼけて点けたんやし、寒いのはエアコンの故障のせいや! そう思いたい。

 視界の隅に、押し入れの戸が入っている。

 今度の隙間は大きいぞ!

「タカシくぅん」

 何か、青い。

 青い塊が、押し入れの隙間から突き出してきた……?

 目の端に映っとるだけで充分や! 振り向いてはいけへん。声も、聞こえへん、聞こえへん!

「タぁカぁシくぅん」

 マミの声だ。何も知らない者ならば、可愛いらしいとを思うかもしれない、だからこそ一層おぞましい声が。

 ……さっきよりも近い。

 ついに我慢できなくなって、見てしまった。

 押し入れの戸を50センチほど開けて、マミの形をした真っ青に光るものがズルズルと這い出してこようとしている。一糸も纏わず、しなやかな裸体を晒している。しかし髪までもが青く、ほのかに発光しているのは、どうしたわけか。

 ある種の虫や海洋生物のようだ。しかし、その形はマミそのものだ。

 畳に這いつくばったまま、緩慢な仕草で、こちらに手を伸ばして、

「タぁ~カぁ~シぃ~」

 と、呼ぶ。微笑む。間違いなくマミの声、マミの笑顔だ。だが青い。

 喉から悲鳴を溢れさせて、飛び起きた。

 部屋から駆けだす。玄関でサンダルをつっかけ、下駄箱に置いた鍵束を引っ掴む。

 その間も、青いマミは後ろで叫びつづけた。

「タカシ・タカシ・タカシ・タカシ・タぁ~カぁ~シぃ~くぅ~ん!」

 振り向かずともわかる。這い寄ってきているに違いなかった。転げるように階段を下りて、マンションの駐輪場で自分の自転車に乗った。

 玄関の鍵を掛けるのを忘れてしまったことに気づいたが、戻る気にはなれなかった。上は下着メーカーのTシャツ1枚、下はパンツを穿かずに薄っぺらい短パンだけという格好で、財布も持っていない。

 こういうとき、頼りに出来そうなのは先輩だけだ。

 全速力で自転車を漕いで、10分ほどで先輩のバーに着いた。

「おや、急にどうしたん? あっ! 入るな! とんでもないもんをくっつけてきよった! ちょっと待て!」

 ドアを開けた直後、先輩に怖い顔で止められた。カウンターの中から、壺ごと食塩を持ってくると、土俵入りする力士のようにバッサーッと振りかけてきた。

「よし。これでいいやろ。入ってええで。浄めの酒も、はよ一杯いっとけ」
「浄めって……」

 先輩は頭を掻いて、「白状するよ」と言った。

「内緒にしててんけど、実は霊感があるんや」

 先輩は、幽霊の存在を感じ取れる体質の持ち主で、「葬儀社のマンションはかえって安全だから油断した」とのこと。

「え? 逆やない? 隣がご遺体の安置室なんですよ?」

 と、貴司さんが意外に思って訊ねると、「そう思われがちやけど、それが正反対なんや」と先輩は首を振った。

「あっこに連れてこられた亡者は、お坊さんがお経あげたり線香焚いたり、遺族は悼んでくれるし、いたれりつくせりで、みんな成仏してまうからな。しかし、おまえが連れてきたのは生霊やから……」

 先輩の見立てでは、その夜、貴司さんに憑いてきたのは、マミの生霊だった。

 貴司さんがマンションで青いマミを見たこと、押し入れの戸がひとりでに隙間を開けていたことを話すと、それもマミの仕業だと述べた。

「じゃあ、隣でお通夜をしていないときにも、線香の匂いがときどきしてきたんやけど、それもマミが……?」
「それは違うかもしれないな。でも、さっきも言うたように、あのマンションには逆に幽霊が出づらい。変なことは大方、生霊のせいや」
「なら、今後も現れますか?」

 先輩は気の毒そうに貴司さんの顔を見つめた。

「うん。たぶん。彼女があきらめるまでは……」

 夜道を独りで帰る勇気はなく、その晩は店に泊まらせてもらった。

Image by Duy Nod from Pixabay

 先輩のバーから帰途についたのは翌朝の7時頃だった。平日だったので出社しなければならず、家に帰って着替える必要があったのだ。

 葬儀社のマンションから会社までは、バーまでとほぼ等距離の自転車で10分の距離で、10時までに会社に着けばいいから、慌てることはない。

 空は明るく晴れ渡り、すでに陽射しが暑い。何の変哲もない真夏の朝だ。国道沿いの歩道の脇をスイスイと走る。歩道にはまだ人影が少なく、プールバッグを提げた小学生たちとすれ違ったぐらい、あとは犬の散歩をしている人を見かけた程度だった。

 やがて、工事現場の近くに差し掛かった。路肩に大型トラックが停められていたので、歩道に乗り入れた。自転車で歩道を走ってはいけないが、前にも後ろにも歩行者はおらず、少しだけなら見とがめられることもなかろう。

 顔を風が洗う。実に気持ちいい。

 ――憶えているのは、そこまでだった。

 気がつくと地面に横たわっていた。アスファルトの臭いが鼻を衝く。帽子を被った頭が黒いシルエットになって、顔の真上にあった。

 若い男だ。警察官のようだ。

「あっ、目が覚めましたね! 大丈夫ですか?」

 起きようとすると、体のあちこちが悲鳴をあげた。とくに額がズキズキと痛み、思わず手で押さえると、瘤が出来ていた。微かに湿った感触もある。

「少し血が滲んでますね。そこの電柱にぶつかったんですよ」

 男はやはり、すぐ近くの交番に詰めていた巡査だった。

 貴司さんは、自分から電信柱にまっしぐらに突っ込んで激突、倒れたのだそうだ。一部始終を目撃した通行人が交番に駆け込んで、知らせてくれたのだ――と、巡査は説明した。

「なんで、そないなことをしたんですか?」
「そう言われても、全然覚えがあらへん。友人のところからチャリで家に帰る途中で、普通に漕いどったんですが、急に意識が飛んで……。 自分から電柱にぶつかっていったって、本当ですか? 直接、その人から話を聞いてみたいなぁ!」
「それが、すぐに立ち去ってしまわれたんですよ。若い女性やったけど」
「若い女性?」

 ――まさか。

「どんな人でした?」
「まあ、別嬪やった! タレントみたいな……。そんなんより、立てますか? 頭を打っとるから、病院で診てもうた方がいいです。救急車を呼びますか? それともご家族に迎えに来てもらいましょうか? ……どうしました? そないに周りが気になりますか? 誰ぞお連れがいらしたんですか?」

 マミがどこかで見ているのではないか、と、思わず辺りを見回して、巡査に不審がられてしまった。

「いいえ、誰も……。独りでした! 大丈夫ですよ! 家はすぐ近くですし、歩いていけます! 会社があるので、帰らないと!」

 葬儀社のマンションまでは、実際、そこから100メートル足らずだった。しかし巡査は玄関までついてきた。住所氏名をしっかりと控えていったから、不審者だと思われたのかもしれなかった。本当に大丈夫かと念押しされ、何かあれば連絡するように、と、下駄箱の上に名刺を置いて、ようやく立ち去った。

 怪我は恥ずかしいし、不審者扱いは気に障った。が、独りになると、しまったと思った。奥の部屋に入るまで、巡査にいてもらえばよかったのだ。

 昨夜逃げ出した部屋に入るのは、勇気が要ることだった。

 まずは顔だけ入れて、室内をひとわたり見渡す。

 丸めたチリ紙のようになった蒲団。点けっぱなしのテレビに、ニュース番組が映っている。エアコンのスイッチは切れていて、室内は蒸し暑かった。

 そして、押し入れの戸は、閉まっていた。

 襖紙がしらじらと陽の光を照り返している。

 思い切って開けてみたが、不思議な青いマミも、何も潜んでいなかった。

 それからは、さほど恐ろしい目にはあっていないと貴司さんは言っていたが、私には賛同できない。

 確かに彼は、青く発光するマミを二度と見ていないし、彼女のつきまといも止んだ。

 あまりにも突然、何も仕掛けられなくなったので、もしかしてマミは死んでいて、青いマミは生霊ではなくて幽霊だったのでは、と思うようになったという。

 彼女の勤め先に確認してみたら、ひと月以上前に派遣会社を辞めていた。どこに行ったかはわからずじまいだったから、本当に死んでいる可能性も考えられた。

 しかし、とにかく何も起こらないので、次第に彼は穏やかな日常を取り戻していったのである。

 ただ、その翌年の1月末か2月頭の頃――マミと別れた季節だ――になって、こんなことがあった。

 夜の8時頃、残業していたら携帯電話に非通知の番号から着信があった。出てみたところ、知らない男がいきなり、「マミに酷いことをしたそうだな」と脅しつけてきたのだった。

「なんや、どこの誰ですか?」
「彼の世でマミを預かっとる者だ」

 そう男が真面目くさって答えると、その声に後ろから、クスクスという女の笑い声が被さった。
マミだ。マミは生きていた。そして、新手の嫌がらせを考えついたのか。男を使うとはなんと卑怯な。

「彼女、そこにいるんですね?」

 遠くからマミが答えた。

「いるわよぉ」

 その直後、一方的に電話が切られた

 ふざけた電話は、それきり掛かってくることはなかったということだ。

 しかし、さらに数年後、貴司さんは、たまたま手に取った男性週刊誌のページの上にマミを見つけた。そこではマミは性風俗店のキャストとして、顔写真付きで雑誌記者のインタビューに答えていた。

「私が風俗嬢になった理由ですか? それはTクンのせいです♡ Tクンが私をセックス大好き人間にしちゃったから、こういうことになったんです♡」

 名前が違ったが、顔については見間違えようがなかった。

 平成時代の一時、アイドル的な風俗嬢たちが「フードル」と呼ばれて、成人誌などを賑わせていたことがあった。マミは、そのフードルになっていたのだ。

 ――常識的に考えれば、何も矛盾しない話だ。

 行き場も金も無い彼女は、性風俗嬢になり、身近な男に頼んで、貴司さんにイタズラ電話を掛けさせた。ちょっと脅かしてやろうと思い、「彼の世で……」などと不気味なセリフを言わせたのだ。それでもやっぱり彼のことが忘れがたく、雑誌でああいう話をした。おそらく方々で、貴司さんのせいで風俗嬢になったのだと喋っていたのだろう。

 私が怖いと思うのは、彼女が彼を忘れていなかった点である。

 引き寄せられるように雑誌の彼女を見つけてしまった貴司さんだ。また、いつかどこかで、彼はマミの想いの水脈に触れることになるのではないか。

 清姫のように、意中の男を求めて追いすがる執念。それこそが生霊の正体だとしたら、想われているうちは終わっていない。

 マミの生霊は、貴司さんの目に映らなくなっただけで、未だに彼に憑いているということになる。
むしろ、彼女が冗談ではなく本当に「彼の世」に旅立っていて、雑誌の風俗嬢が他人の空似なら、その方が怖くないような気がする。

関連キーワード:, ,

文=川奈まり子

東京都生まれ。作家。女子美術短期大学卒業後、出版社勤務、フリーライターなどを経て31歳~35歳までAV出演。2011年長編官能小説『義母の艶香』(双葉社)で小説家デビュー、2014年ホラー短編&実話怪談集『赤い地獄』(廣済堂)で怪談作家デビュー。以降、精力的に執筆活動を続け、小説、実話怪談の著書多数。近著に『迷家奇譚』(晶文社)、『実話怪談 出没地帯』(河出書房新社)、『実話奇譚 呪情』(竹書房文庫)。日本推理作家協会会員。
ツイッター:@MarikoKawana

川奈まり子の記事一覧はこちら

※ 本記事の内容を無断で転載・動画化し、YouTubeやブログなどにアップロードすることを固く禁じます。

人気連載

“包帯だらけで笑いながら走り回るピエロ”を目撃した結果…【うえまつそうの連載:島流し奇譚】

“包帯だらけで笑いながら走り回るピエロ”を目撃した結果…【うえまつそうの連載:島流し奇譚】

現役の体育教師にしてありがながら、ベーシスト、そして怪談師の一面もあわせもつ、う...

2024.10.02 20:00心霊

セックスを強要する美しすぎる「発光女」の生霊 ―『いきすだま ~追う女~』のページです。などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで