阿部定が生まれ育った神田の実家。かつては長屋が建ち並んでいたが現在はビルになっている。撮影/八木澤高明
阿部定は、明治38(1905)年5月28日に生を受けた。定が生まれた頃の神田周辺は、すでに当時の面影はないが、職人とその家族が住む長屋が建ち並んでいた。定の父親は腕の良い職人で、常時5~6人の職人を雇い、商売は繁盛していたという。そんな環境で、末っ子ゆえとくに可愛がられた定だったが、彼女は次第に仲間と浅草へ繰り出したり、常に男が絶えないなど立派な不良娘となっていた。そしてある日、見かねた父親により「そんなに男が好きなら芸妓にでもなれ」と、横浜の芸妓屋へ身売りされてしまう。その後、定は娼婦となり、富山、長野県飯田、大阪飛田、兵庫県丹波篠山、神戸、名古屋と流れ、15年にわたり、春をひさいで生活していた。
兵庫県丹波篠山市。赤線跡に残る阿部定が働いていた大正楼は当時のまま。撮影/八木澤高明
そんな彼女の転機となったのは、1935(昭和10)年、名古屋で学校の校長を勤める人物との出会いだった。真っ当な道を歩むように諭され、後に殺人を起こすことになる校長が経営する料亭で働きはじめたのである。だが皮肉にも、娼婦の道を離れたことが、事件を起こすきっかけとなってしまうのだ。