阿部定が愛人の性器を切断した東京・尾久の旧三業地界隈。撮影/八木澤高明
そして東京都荒川区尾久。かつて「尾久三業地」(料理屋、芸者屋、待合・連れ込み旅館の三業種の営業を特別に許可された地域)と呼ばれたこの旧歓楽街こそ、阿部定が事件を起こした土地である。数年前にここを訪ねたときには、古い旅館がまだ残っていたが、現在は駐車場となっていた。かろうじて、事件当時のことを記憶する老女に出会い、話を聞くことができた。
「私は12~13歳ぐらいだったかね。この通りに新聞社の車がだーっと並んでね。あの頃、人殺しなんてなかったから大変な騒ぎだったんだよ」
事件はすでに80年近くも前のことではあるが、いまも残るほどの衝撃を当時の人々に与えたことがよくわかる。阿部定は逃走時、切断した男の男性器とともに血染めの股引やズボンを着込んでおり、逮捕後も警察によって男の衣服が押収されるのを拒んだという。妻帯者であった男との道ならぬ恋ゆえに、「生かしておいたら他人のものになってしまう」とも彼女は言った。
純愛が、いきつくところまでいった末の殺人。彼女にとって男を殺めることは、彼を自分の心のなかだけで生かすことでもあった。