島根県「乙女峠」の聖母マリア出現事件!拷問に耐えた“隠れキリシタン”は何を聞いたのか?

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画像は「pixabay」より

 有史以来、聖母マリアの姿を目撃したという報告は多数寄せられている。よく知られているものとしては、フランスのルールドやポルトガルのファティマ、ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエでの目撃例などがあるが、アイルランドのトック、エジプトのカイロ、ニカラグアやルワンダなども有名である。

 聖母マリアの出現に際しては、予言や警告が発せられ、重病人が治癒するなどの奇跡も伴うことが多い。また目撃例の中には、現地のキリスト教徒が危機に陥った際、まるで彼らを慰めるように聖母が姿を現したケースもある。そして日本でも、この種の出現事件が起きているのだ。

 それは明治2年(1869年)、島根県津和野町にある「乙女峠」での出来事であった。なぜ島根県の津和野が聖母マリア出現の舞台となったのかを述べるには、そこから4年前の慶応元年(1865年)、長崎の大浦天主堂に“隠れキリシタン”たちが大挙して名乗り出た、いわゆる「信徒発見」から述べる必要があるだろう。

■概説:信徒発見 ― 現実になった「バスチャンの予言」

 キリスト教は1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられた。しかし1587年、時の権力者である豊臣秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を発令。1597年には、スペイン人宣教師を含むキリスト教徒26人が長崎で磔刑にされるという事件も発生している。(ちなみに、この時の26人は後にローマ・カトリック教会によって聖人に認定されたが、磔にされた彼らの頭上に、謎の飛行物体が現れたとも言われている)

 そして、徳川家康も秀吉の禁令を引き継ぎ、1614年にキリスト教信仰を全面的に禁止した。その20年後の1637年には「島原の乱」が起こるが、これが鎮圧されると、表向きにはキリスト教徒は日本から消え去った。しかし日本各地には、“隠れキリシタン”として仏教徒を装いながらも、自らの信仰を維持する者たちが少なからずいたことはご存知のとおりである。

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ベルナール・プティジャン神父 画像は「Wikipedia」より引用

 そんな彼らの間には、日本のキリスト教徒の未来を予言した「バスチャンの予言」と呼ばれるものが密かに伝わっていた。そこには、「7代後に神父が黒船でやってきて、以後は信仰を告白できる」という内容もあったという。そして実際に「島原の乱」からほぼ7代を経た1853年、アメリカのペリーが黒船で浦賀に来航し、江戸幕府は鎖国政策を捨て開国を決めた。さらに1863年には、フランス人のヒューレ神父が長崎にやって来て、1865年に大浦天主堂が完成しているのだ。

 さて、それは大浦天主堂が完成してほぼ1カ月後の3月17日のことだった。当時大浦天主堂に常駐していたプティジャン神父が祈っていると、門の前に十数名の日本人の一団が集まってきた。神父が応対すると、4、50代くらいの婦人がこう言った。

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大浦天主堂 Kzhr投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

「神父様、ここにおります者たちは、皆あなた様と同じ心でございます」

 それからこの婦人は神父に尋ねた。

「聖母マリア様の御像はどちらにありますか」

 神父が祭壇右にある聖母マリア像へと案内すると、一同は口々にこう言って像の前でひざまずいた。

「本当に聖母マリア様だ! 見てごらん、御子イエス様を腕に抱いておられる」

 この出来事は、日本におけるキリスト教史の観点から「信徒発見」と呼ばれることとなった。「島原の乱」以来200年以上の間、キリスト教徒たちが禁令の中で密かに信仰を保ってきたという、世界的にも例のない事件である。

■乙女峠の聖母マリア出現事件

 しかしこの時、連綿と続いてきたキリスト教禁令はまだ解かれたわけではなかった。「信徒発見」直後に明治維新が訪れたが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害が本格化したのは、じつは明治になってからのことだった。当初の新政府は、天皇中心の国家体制を築くためキリスト教信仰を引き続き禁止したのだ。

 こうして長崎で名乗り出たキリスト教徒たち3,400人は囚えられ、萩、津和野、福山、名古屋など20箇所に流罪となる。明治4年(1871年)の廃藩置県はこの2年後のことであり、こうしたキリスト教徒の扱いは、当時まだ存続していた各藩の判断に任されていた。28人が送られた津和野藩は当初、神道による教化で改宗させようと試みたが、彼らの信仰は固く、効果がないとわかると苛烈な拷問が始まった。

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乙女峠マリア聖堂 画像は「Wikipedia」より

 雪深い冬の津和野で、氷の張った水に投げ込んだり、縛ったまま殴りつけたり、さらには「三尺牢」と呼ばれる身動きすらままならない三尺四方の檻の中に閉じ込め、裸のまま何日も外気に晒すなどの激しい拷問が行われ、耐えかねて棄教する者も現れた。その一方、改宗を拒んで殉教していった者の中には、3歳や4歳といった年端もいかぬ子どもまで含まれていたという。

 こうしたキリシタンの中に、安太郎という信徒がいた。親切で優しい人柄の安太郎は、模範的な信者であった。ほかの信者からも尊敬されていたから、津和野藩の役人は、この男が信仰を捨てれば皆が追随すると考え、彼を「三尺牢」に閉じ込め、裸のまま真冬の乙女峠に捨て置いた。

 安太郎は明治2年1月10日から、「三尺牢」に閉じ込められたという。戸外で何日も過ごす安太郎の身を案じた仲間たちは、小さな硬貨をナイフのように用いてやっとの思いで床に穴を開け、17日の夜、密かに彼の様子を見に行った。すると、一週間牢に閉じ込められている安太郎は、逆に仲間を勇気づけるようにこう言い放つのだ。

「私は少しも寂しくありません。毎夜、九つ時(深夜0時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様のようなご婦人が現れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです」

 信徒たちは、この女性は聖母マリアに違いないと信じた。しかし安太郎は、仲間にこの話をした直後の22日、ついに力尽きて天に召された。聖母マリアが安太郎にどのような話をしたのか、具体的な内容は伝わっていないようだ。


 現在、島根県津和野町の乙女峠には、聖母マリア出現を記念する聖堂や、「三尺牢」に入った安太郎と聖母の像なども建てられている。しかし世界的に見ると、日本での聖母関連事件としては、秋田に伝わる「涙を流す聖母像」の方が有名らしい。有名な聖母出現地と異なり大規模な施設はないが、乙女峠は津和野駅からそう遠くない、渓流の近くにある。それがかえって、聖母マリアの慈しみを感じさせる風情にもつながっている。山陰の小京都と呼ばれる津和野町内の観光も兼ねて、読者の皆さんもいつか訪ねてみてはいかがだろう。

 

※当記事は2015年の記事を再編集して掲載しています。

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文=羽仁礼

一般社団法人潜在科学研究所主任研究員、ASIOS創設会員、 TOCANA上席研究員、ノンフィクション作家、占星術研究家、 中東研究家、元外交官。著書に『図解 UFO (F‐Files No.14)』(新紀元社、桜井 慎太郎名義)、『世界のオカルト遺産 調べてきました』(彩図社、松岡信宏名義)ほか多数。
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