徳川を祟る「伝説の妖刀・村正」、実は大量生産の安物だった! 美術品・文化財的な価値もなし、イメージと真逆の実態
■村正が徳川家を害した、ごく当たり前の理由
村正が、現在の三重県北東部の桑名市で活躍した刀匠であり大量生産の数打ちをよしとしていたこと、村正の刀は安くてよく斬れるコストパフォーマンス抜群の品であること、さらに村正の周囲に住む大名や武士たちが村正の刀を大量に買い求めたということは先述した通りです。
これら村正の事情を、時代的、地理的な背景に照らし合わせて考えてみましょう。江戸幕府を開く前、徳川家が治めていたのは三重県の東隣にある現在の愛知県岡崎市周辺で、村正の工房があった三重県桑名市とは直線距離で約50kmと、比較的近い場所にありました。そしてこの時代は交通の便が悪く、遠方から陸路で物を運ぶのは困難かつ危険なことでした。また、三重県と愛知県を挟む伊勢湾は穏やかで、古くから海運が盛んに行われていた場所です。
ここまで書けばもうおわかりでしょう。徳川家の周りには、三河武士たちがこぞって買い求めた、切れ味鋭い村正の刀が大量に流通していたのです。周りにいるたくさんの人々が村正の刀を持っていたがため、村正の刀はたまたま徳川家に害をなしてしまい、結果として妖刀扱いを受けるに至った、という訳です。
そう、徳川を害する妖刀村正伝説は偶然の産物なのです。
■妖刀村正伝説の放つ「妖しさ」
画像は「西日本新聞」より引用
さらに指摘するならば、実はこの妖刀伝説自体、その出自や由来があやふやなものなのです。家康は特注でもしたのか、異色の逸品と評される珍しい特徴を持つ村正の刀を愛用し、決して手放さなかったと伝えられています。この村正は、尾張徳川家の品々が展示されている愛知県の「徳川美術館」に収蔵されている、由緒正しきものです。家康が本当に村正を嫌っていたのならば、尾張徳川家に「家康の村正」が残されているはずがありません。
ですが、「村正は徳川を祟る妖刀」という噂がいつしか生まれ、広がって行きました。やがて「妖刀村正」の登場する歌舞伎や講談がいくつも作られ、それによって妖刀村正伝説は一般市民にまで広く知られるところとなり、完全に定着したのです。おかしなことに、時代が進むにつれて当の江戸幕府内でさえ「村正は忌むべき存在である」という認識を持つに至っています。
実のところ、妖刀村正伝説における最も不可思議な点は、徳川家を害したエピソードではなく、その伝説が生まれた経緯と発祥なのです。いくつか仮説は立てられていますが、いずれも決定力に欠けるものでしかありません。
つまり「妖刀村正伝説」は、歴史に埋もれたミステリーといえるのです。
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2024.10.02 20:00心霊徳川を祟る「伝説の妖刀・村正」、実は大量生産の安物だった! 美術品・文化財的な価値もなし、イメージと真逆の実態のページです。徳川家康、徳川家、博物館、日本刀、たけしな竜美、幕末、村正、美術品、武器紹介シリーズなどの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで