徳川を祟る「伝説の妖刀・村正」、実は大量生産の安物だった! 美術品・文化財的な価値もなし、イメージと真逆の実態
■刀匠「村正」とは?
それでは、「村正」という刀匠と「村正の刀」について説明していきましょう。
村正は、室町時代中期から江戸時代(14~16世紀)にかけて活躍した刀匠です。彼の出身は、現在の岐阜県南部の関市、今でも「関の刃物」で世界的に知られている刀の名産地です。しばらくは生まれ故郷である関で活動していたのですが、後に現在の三重県北東部の桑名市へと移住し、そこで「村正」の刀匠名を名乗り、3代にわたり刀を作り続けています。
村正の刀の特徴は「直刃(すぐは)に近い刃紋(刀身の模様)と、タナゴ腹の茎(なかご。持ち手となる柄に覆われる部分)」などですが、ここでは省きます。それよりも重要なのは、刀匠村正と村正派の特徴として、「数打ち」という大量生産をよしとする向きがあったことです。数打ちの刀とは、基本的にどれだけ安く早く大量に作れるかが重要で、武器としての性能は低い粗悪なものです。
しかし村正は、名高い刀と刀匠を数多く輩出した「関鍛冶」の出身。おそらく故郷で受けた教えや経験などから、品質と手間のバランスを見極めたのでしょう、価格の安い量産品の数打ちながらも斬れ味は鋭いという、奇跡的な刀を作っていたのです。
各種資料においても、村正の刀はおおむね「名刀には敵わないものの、数打ちとは思えないほどよく斬れる」という評価を受けています。要するに村正は「コストパフォーマンス抜群の刀」という訳です。
■大量生産品の安物だった村正
そして村正が活躍した時期は、ちょうど時代が入れ替わる戦乱の時期と一致しています。いざ合戦となれば、当然ながら兵士に持たせる武器が大量に必要となります。そのような時代に、大量発注に応じてくれて価格は安く、さらによく斬れるという、コスパ抜群の村正の刀が見逃される理由はありません。村正が住んでいた地域周辺を所領とする大名や武士たちは、こぞって村正の作った武器を買い求めました。もちろん村正も、それに応じて大量の刀を作っていったのです。
画像は「西日本新聞」より引用
大量生産の数打ちをよしとした村正の刀は、もちろん現代まで複数伝わっているのですが、ほかの名高い刀匠……たとえば正宗の刀のように、日本政府から国宝や重要文化財などに指定されたものはひとつもありません。これはすなわち、村正の刀には美術的、文化的な価値がほとんどない、ということです。
そして量産品だけあり、村正の刀には名刀にありがちな逸話が非常に少なく、そのため号(その刀の逸話などを由来とする通称。たとえば刀身を振らず押し当てることで人体を両断した、つまり“へし切った”という伝承を持つ“へし切長谷部”など)の付いた刀もほとんどありません。
そのような刀匠の刀が、なぜ高い知名度を得るに至ったのでしょうか。堂々巡りとなりますが、理由はもちろん、冒頭の徳川家を害したエピソードからです。
それでは、逆に考えてみましょう、村正の刀はどうして徳川家を害すことができたのでしょうか。実のところ、ここまで紹介してきた刀匠村正の特徴を併せて考えれば、確率的にそうなっても仕方がない、という結論に至るのです。
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2024.10.02 20:00心霊徳川を祟る「伝説の妖刀・村正」、実は大量生産の安物だった! 美術品・文化財的な価値もなし、イメージと真逆の実態のページです。徳川家康、徳川家、博物館、日本刀、たけしな竜美、幕末、村正、美術品、武器紹介シリーズなどの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで