長崎キリシタン弾圧・拷問の表に出てこない残酷な真実! 6坪の因獄に閉じ込められた信徒200人は大小便を垂れ流し、体を蛆に喰われ…
長崎県長崎市内から高速船とフェリーを乗り継いで2時間あまりのところに浮かぶ久賀島。この島に「牢屋の窄(ルビ:ろうやのさこ)殉教記念教会」という名前の教会がある。人里近くに建つこの教会の敷地内には、『信仰之碑』という石碑が建立されており、そこには、当時の政府による迫害を受けて亡くなった人たちの遺骨が納められている。この石碑は、キリシタン弾圧を受けても信仰心を捨てなかった、信徒の信仰心の強さを現代に伝えるために建てられた。
日本のキリスト教史が幕を開けたのは、1549年(天文18年)のことになる。カトリック教会の一派で、イエズス会の司祭・宣教師であるフランシスコ・ザビエルが、日本に初めてキリスト教を伝えたことに始まる。その後、多くのポルトガル船が寄港するようになると、宣教師たちが活動して、長崎地方では、数多くの人たちがキリシタンとなった。
1868年(明治元年)、長崎浦上のキリシタン処分決定(※)に始まるキリシタン弾圧の歴史は、久賀島のある五島列島にも及んだ。かつて「牢屋の窄殉教記念教会」の地には、6坪の信徒因獄が建てられていて、200名あまりの人が収監されていた。政府によってキリスト教を放棄させるための拷問が行われると、8カ月あまりの間に42名の殉教者を出すことになった。この中には、多くの子どもが含まれている。
「あの牢屋に収監されていた人たちは、人としての扱いを受けておらんかったとですよ。狭かとこに閉じ込められとって座ることもでけんと、身体は隣におる人の圧力で持ち上がった状態だったとです。眠るときも、そのままの状態だったとですよ。食べるもんは、朝夕に一握りの芋が出るくらいだったとよね。みんな大小便もたれ流しになっとって、疲労と飢えが原因で亡くなったとですよ。死体は、5日間も放置されとって、腐ってうじ虫がわいてきたとです。これはもう、拷問以上の苦しみでしょう。もう可哀想で可哀想で……」(久賀島に住む男性)
※長崎浦上のキリシタン処分決定:明治政府は、1868年5月17日に大阪で御前会議を開いて、「キリスト信徒の流罪」を決定した。信徒は、流刑先で拷問を加えられた
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2024.10.02 20:00心霊長崎キリシタン弾圧・拷問の表に出てこない残酷な真実! 6坪の因獄に閉じ込められた信徒200人は大小便を垂れ流し、体を蛆に喰われ…のページです。拷問、長崎、小倉門司太郎、殉教、キリシタン、久賀島、弾圧などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで