箱根駅伝の生みの親は「消えたランナー」!? 55年間シッソウし続けた最遅記録保持者とは?

 このあと8時、今年も激戦が予想されている「第99回箱根駅伝2023」がいよいよ開幕。本日7時50分から放送の「第99回東京箱根間往復大学駅伝競走」(日本テレビ系列)では、その様子が完全生中継される。東京・読売新聞東京本社前から箱根・芦ノ湖駐車場を折り返し、217.1キロを2日間かけて競う学生長距離界最長の駅伝競走だ。

 今やお正月の風物詩としてすっかり定着した”箱根駅伝”だが、その始まりは1920年、日本マラソン界を盛り上げるべく、オリンピックランナーの金栗四三氏による呼びかけによって第一回が開催されたことにある。いわば”箱根駅伝の生みの親”とも言える金栗氏だが、彼こそが「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379」というマラソン史上最遅の記録を持つ伝説のランナーだった。

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※ こちらの記事は2014年1月5日の記事を再掲しています。

 約55年かけてゴールしたオリンピック選手をご存じだろうか? それが箱根駅伝の生みの親なのである――。

箱根駅伝の始まり…当時の裏の目論みとは?

 圧倒的な強さを見せつけた東洋大の往路復路完全優勝で第90回箱根駅伝は幕を閉じた。

 1月2、3日の両日かけて東京大手町と箱根・芦ノ湖間の往復合計10区間(217.9Km)を競い合う箱根駅伝は、学生長距離界最大の駅伝競走である。箱根駅伝本戦に出場できるのは、関東学連加盟大学のうち、前大会にてシード権を獲得した10校と予選会を勝ち抜いた9校、それに学連選抜を加えた20校だ。今回は5年に1度の記念大会ということで、選抜枠を3校増やし、23校での争いとなった。

 箱根駅伝が正月の風物詩ともなったのは、1987年に始まった日本テレビでの完全生中継によるところが多い。これにより箱根駅伝の認知度は飛躍的に広まり、今では応援ツアーも組まれるほどの人気だ。正月三が日で1年分を稼ぐと言われる瀬古利彦さんの迷解説を聞かないと年が明けたと感じない人もいるとか。

 第一回箱根駅伝は大正デモクラシーが叫ばれる1920年、日本マラソン界の底上げに尽力していたオリンピックランナーの金栗四三(かなぐり しそう)の呼びかけによって開催された。参加校は、「早稲田、明治、慶応、東京高等師範(筑波大の前身)」の4校。金栗の懐には、アメリカ横断マラソンを開催し、世界の陸上界を驚かしてやろうという裏の目論みがあり、箱根駅伝は、その派遣選手を選考するという目的があったのだ。道路整備もままならぬ箱根の山の闇夜は道が分かりづらい上に凸凹の砂利道で、地元の小田原高校競争部の伴走や、青年団有志がたき火を持って誘導するなど、懸命なアシストのおかげで、無事成功に終わった。ちなみに、箱根駅伝実現にあたっては、その3年前に大成功をおさめた「東海道駅伝徒歩競争」の影響が強い。


「東海道駅伝徒歩競争」とは?

 1917年、明治維新からちょうど半世紀、「遷都50周年」を記念して、東京・上野で大博覧会が開かれることになった。そこで主催の読売新聞社が、博覧会をひとつ盛り上げようと、大マラソン大会を企画する。遷都の際に明治天皇が辿った足跡とほぼ同じコースを博覧会開催期間である3日間、日中夜かけて走破するというものであった。

総距離508キロでを23区間に分け、関東組と関西組の東西対抗という形がとられた。この大会は、江戸時代の宿場町を走って荷物を運んだ職の名前にちなんで「東海道駅伝徒歩競争」と名付けられた。まさに駅伝という競技が誕生した瞬間である。京都・三条大橋東詰と上野公園の不忍池に「駅伝の歴史ここにはじまる」と刻まれた「駅伝の碑」があるのはこのためである。トップでゴールしたのは、金栗であった。走破記録は41時間44分。当時の新聞は、日本橋三越や白木屋の窓から民衆が帽子やハンカチを降って大きな声援を送っていた様子を伝えている。特にゴールがよく見える上野精養軒では見物客でごった返していたようだ。かくして日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競争」は予想以上に大きな成功をおさめたのである。

 それからさらに遡って1911年、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けた予選会で、愛用の白足袋が途中で破けてしまうというアクシデントに見舞われながらも、当時の世界記録を27分縮める2時間32分45秒という大記録で優勝した。

 

箱根駅伝の生みの親は「消えたランナー」!? 55年間シッソウし続けた最遅記録保持者とは?の画像1
画像は「scottish running guide」より引用

箱根駅伝を生みの父「消えた日本人」

 しかし、本戦のオリンピックでは、とんだ災難に見舞われることになる。なんと「試合中に消えた日本人」として一騒動になってしまったのだ。予選会での失敗から足袋に改良を施し、裏地にゴムを貼付けた「マラソン足袋」で出場するも、石畳のコースと40度を超える猛暑に苦戦し、日射病から意識を失いコース上に倒れ込んでしまったのだそれを見た近くの農家に介抱され、目を覚ました時は競技も終わった翌日の朝であった。しかしこれは金栗のせいだけではない。ストックホルムまで船と列車を使って20日以上の長旅を強いられた上に、慣れない食生活、あげくのはてには大会当日に来るはずだった迎えの車が連絡ミスで現れず、走って競技場まで行かねばならないというアクシデントの積み重ねがあったのだ。とはいえ、日本国民の期待を一身に背負っての出場だけあって、深い自責の念から、オリンピック委員に棄権の報告などをせずに静かに帰国の途についた。その後、金栗は二度オリンピックに出場するが、成績はふるわなかった。

 月日とともにストックホルムでの失踪事件については忘れ去られていった。アメリカ横断マラソンは実現しなかったものの、金栗が作った箱根駅伝は長距離マラソンの登竜門となり、女子長距離走など一層今後の日本マラソン界のために貢献していた。

 ストックホルムの大会から55年経った1967年、金栗はスウェーデンのオリンピック委員会から、記念式典に招待されることとなる。ストックホルムでオリンピック55周年の式典を開催することが決まり、過去の記録を整理していると、まだ競技中の日本人が見つかったのだ。金栗が、マラソン競技中において「失踪、行方不明」になったままで、棄権の意思が確認されていない以上「競技続行中」であると判断されたのだ。委員会が金栗を招待したのは、この競技中の日本人をゴールさせようという粋な計らいがあったのだ。すでに75歳になっていた金栗は、スーツにネクタイを締め、ロングコートのまま、競技場をゆっくりと走った。55年前たどり着けなかった競技場を。そして長い競技に終止符を打つべくゴールテープをウィニングポーズで走り切った。

 溢れんばかりの拍手喝采の中、アナウンスが流れた。

「日本の金栗、今ゴールしました!タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379」

こうして第5回ストックホルムオリンピック大会はようやく大会の全行程を終了することができたのであった。1983年11月13日、金栗は92歳でこの世を去った。オリンピック史上最遅のランナーが残した箱根駅伝という遺産は、これからも日本マラソン界を牽引していくことだろう。

文=アナザー茂

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