「津山三十人殺し」だけじゃない! 世間を震撼させた“日本刀殺人事件”3選、 勝新太郎の息子も…

――日本で実際に起きたショッキングな事件、オカルト事件、B級事件、未解決事件など、前代未聞の【怪事件】をノンフィクションライターが紹介する…!

 

 日本刀が使われた事件で最も有名なのは、昭和13年に岡山県で起きた、「津山三十人殺し」だろう。松本清張をはじめ多くの作家がノンフィクションとしてまとめ、小説や映画、演劇、マンガ、楽曲のモチーフになっている。

 だが、今では日本刀が殺人に使われることはあまり多くない。入手も困難であるし、持ち運ぶのに目立ちすぎるからだろう。今回は、日本刀が用いられた数少ない殺人事件から、3つのケースを紹介しよう。

●CASE1

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 自民党徳島県支部の副幹事長と、その長男が、自邸で死体となって見つかったのは、平成19年11月11日のこと。周囲には大量の血痕が残され、玄関と庭に2本の日本刀がむき出しのまま投げ出されていた。

 大正時代に創業の平山建設(徳島市大松町)の3代目社長から会長になっていたのが、平山晃千(てるゆき・60・当時)氏。会社はマンション建築や国発注の工事を請け負い、不動産賃貸や仲介業も手がけ、平成18年8月期売上高は18億円を超えていた。

晃千氏は、徳島県建設業協会会長、小松島市商工会議所会頭であり、自民党徳島県支部の副幹事長として自民県連の最大の後ろ盾であり、公共工事削減政策を推し進める小泉・安倍路線に反発する急先鋒でもあった。事件の起きる1週間ほど前には、黄綬褒章を受章している。

晃千氏の長男の徹氏(32・当時)は、平山建設で営業職として勤務していた。知人によれば、「寡黙で、引きこもりがちだったようだ」とのこと。

現場となったのは、徳島県小松島市中郷町。閑静な住宅街である。11日午前0時頃、平山邸の応接室で、晃千氏が徹氏の生活態度を非難し、2人は1時間にわたって言い争ったが、晃千氏の妻が止めに入り、それぞれ自室に戻った。

 2人が死体となって発見されたのは、午前7時10分ごろ。晃千氏は庭で仰向け、徹氏は2階の自室ベッドに倒れて死亡していた。晃千氏の近くには全長1メートルの日本刀、玄関には全長97センチの日本刀があり、いずれも刃に血痕があった。

司法解剖によると、2人の死因は失血死。死亡推定時刻は11日午前4時頃。晃千氏は首、徹氏は首と左胸の傷が致命傷になった。外部から侵入した形跡がなく、2人が日本刀を使って争ったとみて、小松署は殺人容疑で捜査した。

部屋や刀の状況から、2本の日本刀を交えたことは確認されなかった。徹氏は致命傷のほか、上半身の前面に複数の傷があり、背中も刺されていた。2階の徹氏の部屋には大量の血痕が残されていたが、階段や廊下、他の各部屋には血痕は少なかった。

 晃千氏の致命傷は首の傷で、倒れていた庭付近に大量の血痕があり、刀がその場に放置されていた。平山氏が徹氏を殺害した後に自殺したという見方が有力となっている。

 日本刀は美術品として収集されたもので、晃千氏が管理していた。

●CASE2

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日本刀で隣人の女性を殺害して自殺したのは、瑞宝単光章を受賞したこともある元警察官だった。事件が起きたのは、平成24年10月10日。

徳永重正(86・当時)が警視庁に入庁したのは、戦後間もない昭和23年のことだった。昭和60年に赤坂署防犯課(現在の生活安全課)課長代理を最後に警視へ昇進し、定年退職した。警視とは署長レベルの階級で、ノンキャリアとしては、異例の出世だ。警官を辞めた後は仕事で関わった被害者や受刑者たちのために、仏像を彫っていた。

 現場となったのは、東京都世田谷区野沢の閑静な住宅街。徳永の家の幅約2メートルの路地を挟んだ向かいに住む久保節子さん(62・当時)は、近所の猫をかわいがって世話をする優しい性格。自宅の前の道路にたくさんの植木鉢を置いていた。

路地に並んだ植木鉢や猫のふん尿に徳永が文句を言うと、久保さんも「お宅の植木の枝も道にはみ出ている」「人様のことに口を出すな」などと言い返して口論になることがあった。

平成24年6月には、徳永が植木に噴霧器で殺虫剤をかけ、それが猫にもかかり、久保さんが大声を出して抗議してもみ合いになり、近隣住民が取りなして収まるということがあった。

 その後、徳永は自宅前で日本刀の素振りをするようになった。

10月10日午前、2人の言い争いがあった後、久保さんが首から血を流して路上で倒れているのが見つかり、まもなく死亡が確認された。徳永は日本刀を持って久保さん宅に立てこもった。午後1時40分ごろ、警視庁の捜査一課の特殊班(SIT)の捜査員11人が突入。徳永は首から血を流して、玄関近くの部屋で倒れていた。意識不明の状態だったが、搬送先の病院で死亡した。久保さんを刺殺した後、自殺したとみられている。

●CASE3

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 勝新太郎監督・主演で製作された最後の『座頭市』の撮影が、広島県福山市金江町金見の総合レジャー施設「みろくの里」で行われていた。昭和63年12月26日、立ち回りの最中、勝の長男で本作がデビュー作となる奥村雄大(たけひろ・24・当時)の持つ刀が、俳優の加藤幸雄さん(34・当時)の首に刺さり重体となり、翌年1月11日、急性循環不全のため入院先の岡山大学病院で死亡した。

 奥村に真剣を手渡した中村章・助監督(24・当時)は、「演技に迫真力をだすため、真剣を持たせた」と供述した。 だが、「真剣を使うのは、刀のアップを撮る時などだけ。大勢が絡み合うシーンで使うことなどあり得ない」と殺陣役の同僚俳優は語った。撮影は約80人の乱闘シーンであった。

 なぜ模造刀ではなく真剣が使われたかについて、取り調べに当たった広島県・福山西署の捜査員は、助監督の説明では納得できないと首をかしげた。「真剣を使って2世の演技を引き立たせてやりたいという、勝の配慮があったのでは?」との見方もあったが、「真剣の使用を指示しておらず、また使用されていることも知らなかったために監督責任を問えない」として、勝は送検されなかった。

 業務上過失致死、銃刀法違反の疑いで送検されたのは、奥村と中村、小道具係の3名である。奥村は当初、「真剣とは知らなかった」と述べていたが、後になって「真剣と知りながら撮影に使っていた」と供述している。

 いったいなぜ真剣が使われたのかはっきり分からぬまま、業務上過失致死罪で罰金20万円の略式命令となった。

 奥村雄大は平成6年、鴈龍太郎の芸名で、勝が演出と主演を務める舞台『不知火検校』(しらぬいけんぎょう)で復帰し、映画やオリジナルビデオ、舞台で活動していたが、2019年11月1日に急性心不全のため55歳で亡くなっている。

 

※当記事は2018年の記事を再編集して掲載しています。

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文=深笛義也

1959年東京生まれ。横浜市内で育つ。18歳から29歳まで革命運動に明け暮れ、30代でライターになる。書籍には『エロか?革命か?それが問題だ!』『女性死刑囚』『労働貴族』(すべて鹿砦社)、『罠: 埼玉愛犬家殺人事件は日本犯罪史上最大級の大量殺人だった』(サイゾー)がある。ほか、著書はコチラ
Twitter:@giyagiyagiya

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