徳川に仇なすと恐れられた「妖刀村正」の真相とは?

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画像は「Getty Images」より

 村正とは、伊勢国桑名の刀鍛冶である千子(せんご)村正によって作られた刀、短刀、脇差などの総称である。また、徳川家に災いをもたらす妖刀村正の伝説としても知られている。

 1645年ごろの歴史書『三河後風土記(みかわごふどき)』に妖刀村正の話が記されており、1700年代後半になって写本や又聞きが多くなされたことで伝説が広まったとされている。ことは、徳川家康の祖父である松平清康が家臣に殺害されたことに始まる。この時、家臣が殺害に使ったのが村正であったというのだ。その後は、家康の父である松平弘忠も家臣に村正の脇差で殺害され、家康の嫡男信康が謀反の疑いで切腹を命じられた際、介錯に使用された刀も村正であったといわれている。さらに、家康自身が村正の短刀と槍でケガを負ったことにより、ついに村正の所持禁止、破棄の命令が下ったというのだ。

 村正の伝説は他にも存在している。中でも有名なのは、1615年の大坂夏の陣において、真田幸村が逃げる家康めがけて村正を投げつけたという逸話だ。ただし、大坂夏の陣は村正が妖刀として知られるより以前の出来事であり、また幕末の出版物『名将言行録』に記載されていた話であることから、創作ではないかと考えられている。ただ、こうした妖刀としての村正の存在は幕末における倒幕の象徴と化していき、西郷隆盛や有栖川宮熾仁(たるひと)親王、三条実美(さねとみ)といった人物たちがマストアイテムとして村正を所持していたという。

 そもそも村正は切れ味が良いと評判の刀であり、安価で大量生産されていた。その評判によって、千子村正のいる伊勢国のほか三河、東海地方、美濃の武将などに広く出回っていたのだ。これほど大量に広まった村正であったので、ごく一部が徳川一族の殺害などに使われていたと言われても確率的におかしくはない。もっと言えば、家康の祖母が殺害されたこと以外の具体的な根拠が無く、家康の所持禁止令すら実際に命じられたのかも定かではないのだ。

 村正が、実際に妖力が宿った刀であったかはかなり疑わしい。しかし、その評価の高さから、実用的な刀として多くの武士が魅了されていたことは間違いないだろう。一説には、家康自身が村正のコレクターであったとも考えられており、他の人に渡るのを防ぐ意図により妖刀としての村正の伝説を創作したのではないかとも考えられる。観賞用としてのいわゆる名刀とはまた異なった魅力を、村正が有していたことは想像に難くない。

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文=にぅま(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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