文明を捨て隔絶された極寒の地で暮らす「ルイコフ一家」の謎! 飢餓と孤独、次々襲う悲劇と壮絶サバイバル
人類未踏であったはずの最果ての極寒の地に“着の身着のまま”で移り住んだ一家がいた――。文明から隔絶され困難を極めた一家の営みは40年以上も続いたのだった。
■人類未踏のはずの極寒の地で自給自足生活をしていた一家
シベリアの森、タイガは人の移住を拒む極寒であることに加え、クマやオオカミなどの獰猛な野生生物が徘徊しており、人間にとって危険極まりない荒涼たる大地である。人を寄せ付けない領域であることから一帯の地理も最近になるまでよくわかっていなかった。
1978年、付近を油田がらみで調査していた地質学者たちが乗ったヘリコプターが一帯の上空から人影を目撃したことをきっかけに、驚くべきストーリーが明らかになった。なんとこの地で長きにわたり自給自足を続けていた完全に孤立した家族がいたのだ。
人の姿を目撃したもののヘリコプターが着陸できる場所はなく、学者たちはいったん仕切り直して陸路からその人影を追った。
しかしその旅は過酷を極めた。探検チームは山腹を登り、危険な足場と猛烈な凍てつくような吹雪に勇敢に立ち向かい、ようやく空から見た空き地に到達し、老朽化した丸太小屋を見つけた。
探検チームが様子をうかがっていると、小屋のドアがきしむ音を立てながら開き、中から老人男性が出てきた。
チームの地質学者の1人であるガリーナ・ピスメンスカヤ氏は思わず「おじいさん! 私たちはあなたを訪ねてきました!」と老人に呼びかけて挨拶をした。
老人はすぐに返事をしなかったものの「ここまで旅してきたのだから、中にお入りなさい」と小屋に招き入れてくれたのだ。
小屋の内部は天井が低く、窮屈で、寒くて薄暗く、人間の住居というよりは動物の巣穴のようであった。むせ返るような匂いが充満し、床にはゴミや松の実の殻やジャガイモの皮が散らばっていた。
奥の暗闇の中には明らかに怯えている2人の女性がいた。探検チームのメンバーを見て女性たちは今にもパニックを起こしそうなほど狼狽していたので、一行はいったん小屋を出て様子を見ることにした。
しばらくすると、小屋の扉が再びきしむ音を立て、真っ暗闇の中から老人が再び現れた。後ろには落ち着きを取り戻したかに見える2人の女性たちもいた。
老人は自分はカルプ・ルイコフであると述べ、2人の女性は娘のアガーフィアとナターリアであると紹介した。カルプたちはここに40年住んでおり、アガーフィアはここで生まれたという。そして老人は今はここにいないがサヴィンとドミトリーという2人の息子がいることも包み隠さずに話した。
■ソ連から逃れたルイコフ一家のサバイバル生活
カルプによれば、彼らの窮状は1936年に始まり、共産主義政権がさまざまな取り締まりを強化させていた時代に、伝統的なロシア正教会は前時代の教義であるとされて新しい典礼の採用を強いられていたという。これを拒否していたルイコフ一家は迫害の対象となり、同年にカルプの兄弟がソビエトのパトロールによって射殺されたのを機に、一家でこの厳寒の地に逃れてきたのである。
ここに拠点を構えることを決断した一家は掘っ立て小屋を建て、ジャガイモとライ麦を栽培する畑をつくり、ナッツ、麦、ベリー、根菜、野草、キノコを集め、小動物を生け捕りにする罠を各所に仕掛けた。この荒野で手に入れることができるものは何でも集めたが、一家は常に飢餓と隣り合わせであったという。
凍てつく霜は畑の作物を台無しにし、野生動物は彼らの食料品倉庫を襲撃して食い荒らしていった。しかし一家は創意工夫と信仰による意志の強さでなんとかサバイバルを続けてきたのだった。
最初に持参してきた衣服がもう修繕できないほどボロボロになると、彼らは葉、樹皮、麻から服や靴を作った。彼らが持ってきた金属製の食器は、最終的には錆びて砕けてしまい、すべてが役立たずとなった。アガーフィアは後に、食糧を確保することの難しさについて「毎年、私たちはすべてを食べ尽くすか、種のためにいくらか残すかを決定するための家族会議を開きました」と語っている。
彼らは2人の子ども、娘のアガーフィアと息子のドミトリーをこの地でもうけてから40年間、文明社会から隔絶された状態でこの地での生活を続けた。第二次世界大戦が起こっていたことも知らず、ここで生まれた2人は、自動車はもちろん、馬や飛行機を見たことがなく、またパンや塩を口にしたこともなく、外の世界についてまったく知識がなかった。カルプは2人の子どもたちに教育を施してはいたが、子どもたちにとってそれは現実というよりはおとぎ話やSF小説のようなものであり、彼らの現実は、タイガの荒涼とした凍土と永遠の寒さであった。
彼らは多くの困難に直面していたことはもちろん、悲劇にも見舞われた。カルプの妻アクリナは、特に食糧事情が厳しかったある冬の間に自分が食べる分を子どもたちに与え続けた結果、1961年に命を落とした。
■アガーフィアがルイコフ一家の唯一の生き証人に
カルプによれば、彼らはごくたまに荒野で他の人間と出会ったが、接触することは避け完全に孤立して生きることを選んだ。このたびの地質学者チームは、数十年ぶりに接触した外部の人間であったという。
一家はチームメンバーを幾分恐れていたが、同時に魅了されてもいた。特にドミトリーとアガーフィアは、地質学者が持っていた衣服と装備品に完全に当惑していた。彼らは地質学者のキャンプを訪れ、数分で木を切ることができる「丸いノコギリ」に感激し、セロハンとして知られる「しわくちゃのガラス」に驚かされ、テレビを見たときには感動して夢中になった。ここで生まれた子どもたちにとって、それらはすべて魔法に似ていた。
地質学者たちは一家に金属製の食器、鍋、ナイフ、懐中電灯、そして塩を分け与えた。子どもたちは塩は一度も口にしたことがなく、カルプにとっても40年ぶりの味であった。
地質学チームの“発見”によって、ルイコフ一家の話は何度もニュースでとりあげられて人々の知るところとなったが、不幸なことに一家には悲劇が続いた。
1981年にサヴィンとナターリアは腎不全で続けざまに亡くなり、続いてドミトリーが肺炎で亡くなったのだ。
伝えられるところでは、地質学者たちは治療のためにドミトリーを病院に空輸することを申し出たが、彼はそこで待っていることへの恐れと彼の宗教的信念の両方のため、それを拒否して間もなく息絶えたという。
カルプも1988年に亡くなり、アガーフィアがルイコフ一家の唯一の生き証人となった。地質学者たちは彼女にタイガから別の場所に移り住み、文化的な生活を送ることを提案したのだが、宗教的信条の理由でこの地を離れることを拒否している。
その代わりといってはなんだが、アガーフィアにはあらゆる物資が提供された。山小屋の代わりとなるキャビンをはじめ、生活に必要な衣服や機器類、家畜となるヤギやニワトリに加え、年配男性の地質学者、エロフェイ・セドフが住み込みで彼女にそばにいることになった。
ほんの一時期、アガーフィアはロシア政府の勧めでモスクワをはじめロシア国内の主要な都市や観光地を巡るツアーを体験した。街を行き交う自動車や賑やかな繁華街を目の当たりにし、初めて旅客機に乗るなど、アガーフィアにとってカルチャーショックの連続となるツアーであった。
こうした光景のいくつかは彼女を魅了したものの、そのほとんどは彼女を怖がらせたという。アガーフィアはタイガを離れた地の空気と水がゆっくりと心身をむしばんでいると信じていたのだ。したがってアガーフィアはこの後もタイガを離れることはなかった。
2022年8月の時点でアガーフィアが存命であることは確認されている(エロフェイ・セドフは2015年に逝去)。孤独であるかどうかをあるジャーナリストに尋ねられたとき、彼女はこう語った。
「私はいつもキリストと共にいるので、決して孤独ではありません」(アガーフィア)
ルイコフ一家の物語は残念ながらもうすぐ終わることになる。迫害による逃亡生活から、現在は文明社会からの隠遁生活に変わったのは幸いなことであるが、全体的には哀しい物語であるだろう。しかしながらルイコフ一家のストーリーは、人間の持つ逞しいほどの潜在的なサバイバル能力についての魅力的で価値のある考察につながることは間違いない。
参考:「Mysterious Universe」、ほか
※当記事は2021年の記事を再編集して掲載しています。
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