“人食い部族の島”を生き抜いたヘルマン・デツナーの秘密とは? 死ぬまで口を閉ざした男の謎に満ちた4年間

 人食い部族の住む島で4年間生き抜いた優秀で実直な測量士は、なぜ著作に誇張したエンタテインメント性を盛り込んでしまったのか。第一次世界大戦のドイツ軍最後の降伏者として英雄扱いされるも、口を閉ざしたまま寡黙な晩年を送った人物の謎とは―――。

■降伏しなかったデツナーの遠征隊

 欧米列強諸国がしのぎを削る第一次世界大戦の前の数年間、太平洋南部に位置するニューギニア島の北東部をドイツが支配、オランダが西半分を支配し、イギリスが南東部の領有権を保有していた。当時はまだこの一帯の正確な地図は作られておらず、各国が支配する境界線は曖昧でトラブルに発展することもあった。

 そこでドイツは探検隊を派遣して一帯を調査することを画策、自国の技術者で測量士のヘルマン・デツナーを植民地治安部隊の将校としてニューギニア島へ派遣したのだ。

ヘルマン・デツナー By Photographer not credited. – File:Hermann Detzner.jpg, uploaded by Auntieruth55.From book first plate, first edition. Front piece with facsimile signature, PD-US, Link


 1908年から任にあたったデツナーは、少数の部隊を率いて険しいジャングルの中で各地の地形を調査することになった。しかし、調査ではあっても境界を越えたことが発覚すれば、局地戦に発展するリスクもあり、絶え間ない緊張感と慎重さが求められた。

 1914年1月、デツナーは25人の現地兵、45人の荷役夫、および少数のドイツ人技術者らを率いて未開のジャングルへと出発した。

 この遠征はすぐに実りあるものとなる。ドイツの国益に有利な発見が相次ぎ、ドイツ領土が拡張されることになった。遠征隊はまた現地の先住部族に出会ったが、彼らが草のスカートを身につけていたことからはデツナーは「スカートをはいたパプア人」と呼ぶことにした。しかし、彼らは“人食い”の風習を持つ、恐ろしい部族でもあったのだ。

 遠征が10カ月を過ぎようとしていた頃、デツナーは自分たちを取り巻く状況が変化していることに気づかされた。8月4日にイギリスがドイツに宣戦を布告し、この地のドイツ植民地軍は戦闘は行わずすぐに降伏していたことがわかったのだ。そしてデツナーの遠征隊もすみやかに降伏することが命じられたのである。そして、イギリスの同盟国であるオーストラリアの部隊がドイツ領内でまだ降伏しないドイツ人の“残党狩り”を行っていたのだ。

 現地人のメンバーについては即解任となり、それぞれ帰宅の途に就いたのだが、デツナーは降伏する前に30人のドイツ人のメンバーを率いて、島の反対側に位置する中立国オランダが支配する地域に逃げ込むことを考えて実行に移した。こうして彼らのサバイバル生活が始まることになる。

デツナーの本のイラスト 「スカートをはいたパプア人」の特徴が描かれている By unknown – Four Years Among the Cannibals, 1919 source, PD-US, Link

■帰国後に著書が大ベストセラーに

 だが、オランダ領へと逃げ込む作戦は困難を極めた。

 海上を移動する試みは敵艦のパトロールを突破することができず、先住部族との争いも頻発し、マラリアなどの病魔に斃れるメンバーも続いた。

 ドイツのルター派伝道所にお忍びで身を隠すなどしながらサバイバルは続くも、1918年11月11日にドイツが降伏したことで、オランダ領に逃げ込む意味は失われた。

 それでも年内はジャングルに身を隠していた一行だが、年が明けた1919年1月5日、ついに白旗を上げて降伏した。ドイツ軍兵士として一番最後の降伏だったということだ。

 敵から身を隠し、熱帯の病気に悩まされ、そして隙あらば彼らを殺して食べたいと考えていた人食い部族をかわしながらサバイバルした疾風怒濤の4年間であった。

 ドイツに戻ったデツナーは、戦地において最後まであきらめなかった国民的英雄として歓迎され、一躍有名人となり少佐に昇進した。

 そして彼はニューギニア島でのサバイバルの4年間を綴った著作『Four Years among the Cannibals(人食い部族に囲まれた4年間)』と、現地調査の成果を記した著作『Kaiser-Wilhelmsland, nach dem Stande der Forschung im Jahre 1919(カイザー・ヴィルヘルムス・ラント ― 1919年の調査による)』を上梓し、どちらも大ヒットを記録した。

 特に『人食い部族に囲まれた4年間』は、まるで血沸き肉躍る冒険小説のようなエンタテインメント性もあって好評を博し、フランス語、英語、フィンランド語、スウェーデン語に翻訳されて大ベストセラーとなった。

 また『カイザー・ヴィルヘルムス・ラント ― 1919年の調査による』の方も、この未開の地域の非接触先住民の文化と風習への詳細な調査が学術界で好評を博し、ベルリン地理学会、ライプツィヒ地理学会、大学など数々の権威ある組織から名誉学位といくつかの賞、メダル、称賛を獲得した。

 しかし話は予期せぬ方向へと転ぶ。ニューギニア島で“残党狩り”をしていたというオーストラリア軍の元兵士が、当時デツナーの部隊を常に追跡していたが、事実は著書の内容とはまったく違うことを新聞に投書したのだ。

ニューギニアからドイツに届いた絵葉書 By no author information available – Spiegel online: Der Münchhausen der Südsee (posted 1 April 2008). Spiegel gives its source only as “PD”., PD-US, Link

 さらに、デツナーを匿った伝道所の宣教師2人も、部隊が戦場アクション映画さながらのサバイバルをしていたわけではなく、むしろ身の危険が及ばない場所で島の動植物を思う存分研究していたと証言したのである。

 このような声が出始めたこともあり、著書の記述を検証する動きが起こり、その内容には矛盾や脱落、場所の名前の誤り、計算の誤り、そして完全な虚偽が多く含まれていることが明らかになった。結局、デツナーの描写は実際に起こった出来事して信頼できるものではなく、一種の娯楽小説のようであるとの見解が大勢を占めることなったのだ。

 多くの公的な批判の後、デツナーは話のいくつかの部分を装飾し、美化した可能性があることを認めた。しかし、具体的にどの部分が虚飾であるかを正確に言及することはなかった。

 デツナーは権威あるベルリン地理学会を自ら脱会し、世間から忘れ去られ、1970年に88歳で亡くなるまで口を閉ざした隠遁生活を送った。

 優秀で信頼の置ける実直な測量士として確固たる地位を築いていたデツナーが、ニューギニア島での経験を装飾する必要性を感じたのはなぜなのか。回顧録のどの部分がでっち上げであるかを説明していないことに何か理由があるのだろうか。

 これらの質問に対する答えが何であれ、ヘルマン・デツナーは歴史上注目すべき人物であり、第一次世界大戦と欧米列強の植民地時代の興味深いスナップショットである。晩年は何も語らずにこの世を去ったデツナーに隠されたサイドストーリーがあったのかどうか、今となってはそれを知る術はないのだろう。

参考:Wikipedia、ほか

 

※当記事は2022年の記事を再編集して掲載しています。

TOCANA編集部

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