麻原彰晃の三女・アーチャリー「心の奥底にある、『死にたい』」/インタビュー
オウム真理教の教祖で死刑囚となっている麻原彰晃(本名、松本智津夫、以下、麻原)(60)=地下鉄サリン事件などで死刑確定=を父に持つ松本麗華(りか)さん(32)が、手記『止まった時計 麻原彰晃の三女 アーチャリーの手記』(講談社)を上梓した。筆者は、手記が出される前の2月ごろ、「お父さん分かりますか? 麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ」を通じ、取材を申し込んだ。この時は、出版前で準備に追われていたために、取材に応じてもらうことはできなかったが、月日が経ちある程度落ち着いたようで、先日ようやく話を聞くことができた。
■「生きづらさ」について聞きたい
麗華さんが私の取材に応じようとしたのは、取材申し込み書に私が書いた「生きづらさ」という言葉が心に引っかかったためだった。私も麗華さんの「生きづらさ」に関心があった。それは、社会的に大きな関心がある事件の中心にいた人物を父親に持つことによる「生きづらさ」はどのようなものかを知りたいと考えていたからだ。
そもそも、麗華さんの「生きづらさ」の根源は、機能不全家族からのものだ。父親も母親もいるが、「親」としての存在感が強かったわけではない。誰も、麗華さんと愛着(アタッチメント)行動をしているわけではなかった。幼いころ、基本的な信頼関係を築く相手がいなかったのだ。
「帰ってこない父と、家から出ない母」(P.18)と、あるように、麻原は当時、ヨーガ教室の仕事で忙しく、道場に住み込んでいた。たまに帰宅すれば、子どもたちの間で父親の取り合いになる。一方、母親は家にこもりがちだったようだ。さらに、88年8月に富士山総本部道場で生活しはじめて、多くのサマナと触れ合うようになってから、人間関係が不安定になった。
■希死念慮と向きあう少女時代
こうした中で麗華さんは「死にたい」と考えはじめる。同書には『今考えると、本来の自分と期待される自分とのギャップに苦しんでいたように思います。わたしの評価は、わたし自身の物事の達成度により上下するのではなく、ただ、父や周りの価値基準で上下しました』(P.49)と綴っている。
松本麗華さん(以下、麗華さん)「5、6歳のころには、『死にたい』と頻繁に思っていました。子どもはそんなことを考えないと思っている人が多いようですが、子どもって結構、大人です。世界中の人はみんな『死にたい』と考えつつ生きているんだ、と思っていました」
当初、麗華さんは千葉県船橋市に住んでいたが、3歳のころ、初めて家出をする。母親に叱られたのがきっかけだった。このころから、「葛藤があった」という。2年後、静岡県富士宮市の総本部へ転居。環境を変えても心の底にある「死にたい」という気持ちは変わらない。当時は、総本部の屋上に上がり、自殺することを考えていた。
麗華さん「この時の風景は憶えています。屋上からの景色は、白熱灯に蛾や虫が寄ってきていて、その虫が死んでいるのが見えました。また、掃除もされていなかったので汚かった。そこから飛び降りるのが怖かった。痛そう。それに(自殺は)取り返しのつかないことという感じでした。ただ、ギリギリのこと、柵を超えて、フチに捕まって…ということはしていました。怖かったですね。恐怖心がありました」
自殺する寸前、誰かの顔が浮かび、ストッパーになることもあるが、麗華さんの場合は、誰の顔が浮かんだわけではないようだ。だが、
「私は死んだら、父が悲しんでくれるかな?」(麗華さん)
と、思ったという。麗華さんは父親を「大好き」といい、「父がいたから生きていたんじゃないですか」と話す。気持ちの中に、他の誰もいなかった。こうした希死念慮は山梨県上九一色村(現在、甲府市に編入)の第2サティアンに引っ越しても続いた。
麗華さん「上九一色村で凍死しようともしました。8、9歳のときです。どうやって思いついたか? 普通に思い浮かんだんですが…。凍死をしたら、死後の見た目がいいというような話は聞いていた。でも、凍死って大変なんですよ」
凍死しようとサティアンの屋上にも行った。だが、30分ほど経つと、新実智光(松本サリン事件での実行犯、地下鉄サリン事件では運転手役などで死刑確定)が来たという。
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2024.10.02 20:00心霊麻原彰晃の三女・アーチャリー「心の奥底にある、『死にたい』」/インタビューのページです。オウム真理教、渋井哲也、麻原彰晃、松本麗華などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで