ドビュッシーやディズニーも影響された葛飾北斎!! 名画「富嶽三十六景」ができるまで
■浮世絵の歴史~北斎は、浮世絵の
浮世絵というジャンルは、戦国末期、岩佐又兵衛らを祖としてはじまった。そして、東洲斎写楽、喜多川歌麿が現れる。だが驚くなかれ。岩佐又兵衛から歌麿までには、なんと180年から200年もの歳月を経てが流れているのだ。
明治維新が146年前(2014年現在で)だから、それは現在から天保の大飢饉のあたりに相当する長い時間だ。その間に浮世絵は、さほど姿を変えずにじっくりじっくりと姿を変えていった。
鳥居清信と鈴木春信の絵をご覧いただきたい。
鳥居清信の絵にある屏風は、なんとなく不安定ではないか? 畳や縁側の床も実際にこういう傾き方をしていたら、屏風は倒れてしまうだろう。もちろん、そのことが絵の価値を下げるものでないが、このことは西洋絵画に見られる「ものを立体的に見せるセオリー」が十分ではない結果なのだ。
鈴木春信の絵に描かれた番傘は、まさに図示した壷と同じで、傘の両端にエッジがあるのが特徴だ。知ればどうということはないが、モノを立体的には描くためには、このようなモノの構造を知らないといけないのだが、西洋絵画というのはそうしたセオリーにすぐれている。
歌麿以降の浮世絵作家を見ると、特に北斎などは、積極的に西洋絵画の技法を取り入れていたと思われる。北斎に至っては「修行時代に西洋画を学んだ」というはっきりした記録がある。幕末が近づいてきた時代、北斎や歌麿、広重らが、こうした西洋絵画のセオリーをどこで学んだのかは不明だが、江戸時代は決して鎖国されていたわけではなく、相当な数の海外の情報が入ってきたというのは、前回の記事でも申し上げた通りだ。
■西洋絵画のいいとこ取りをした浮世絵
面白いことに、彼らは平面的な日本の絵画の技法を捨てることなく、一部だけちょこっと取り入れているのだ。特に歌麿などは、ホンの少しだけ取り入れるところが見えかくれしている。まさにそのセンスの良さには脱帽である。海外の印象派画家が、彼らの浮世絵から影響を受けたのは有名だが、その中のエッセンスには西洋画から学んだ技法も入っていたというのが興味深いところではないだろうか。
■北斎が融合した浮世絵とは?
さて、200年近くにわたって、なだらかに変化してきた浮世絵は、葛飾北斎という天才の出現を機に、化学変化を起こしていく。
北斎の修行時代は浮世絵師・勝川春章の門下となったのが最初だ。その中で狩野派や唐絵(中国絵画)、洋画などあらゆる画法を学んだ。風俗画を手がける浮世絵師が、幕府お抱えの狩野派に学ぶというのは、当時としては唐絵や洋画を学ぶより珍しいことだったろうが、この辺りが北斎の貪欲さを物語っている。
そして名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけ、当時のイエローペーパーだった黄表紙の挿絵なども描いた。さまざまな様式を学んだことで、北斎は自らが媒体となって、日本絵画の様式や西洋絵画のエッセンスを融合し統合していった。北斎が浮世絵のみならず世界の美術を変革させたのは、そんな理由があったと言えるかもしれない。
それは、あたかもスペイン絵画の巨匠たちに例えることができる。
北斎が当時としては異例の長寿、齢90歳まで長生きしたこともそれに関わってくるだろう。晩年、富嶽百景の初版に「願わくば我を齢百まで生き存えさせよ。さすれば一点一画が生きているように描けるようにならん」と書き残しているが、自分の中で無数のビジュアル情報を、まだまだ融合させ変化させられることがわかっていたに違いない。 スペインにおいては「ベラスケス、ゴヤ、ピカソ」といった大粒の天才が、時間を大きく開けて輩出された。スペインの地形は三方を海に囲まれ、北はピレネー山脈で塞がれているため、出口がない。そのため、文化的にも一度入ったものが長くとどまり成熟する傾向があるのだが、日本も文化的なバラエティはスペインに及ばぬものの、地勢的に出口がなく、一度入った文化は長く長くとどまり成熟する。こうして誕生したのが北斎だったのである。
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