マリファナでキマった僕がその時語った「デッドヘッズの予言」
■日本で味噌汁と定食が食いたくて……
でも、実際にその予言通りに、僕はヒッピーを極める人生になりましたよ。ある日、妹から急に電話がきて、
「兄ちゃん、そのままアメリカで死ぬ気か? アメカジの店を東京で開くのが夢やって言うてたやん!?」
と言われた。妹の言う通り、アメリカで死んでもよかったけど、味噌汁が飲みたいとか定食が食いたいとか、そうしたささやかな望みがあった。
それと、はたと思い出したことが。日本で一緒に働いていた親友たちはどうなった!?
そうしたら、その親友が超無鉄砲で。いきなり「ウェルカム!」と言って、ヒッピーがくれたペーパー(LSD)数枚を一遍に食べてキマりすぎてしまい、デッドショーの会場にある階段の上段から一番下まで、彼の長いロングヘアーと僕のドレッドヘアーが絡み合うようにして、グルングルン回転しながら落下したんです。 すぐに国際電話をかけると、どうやら勤めていたアパレルメーカーは、僕が辞めた半年後につぶれたということだった。僕は「じゃあシスコに来たら」と言って、1人の親友をデッドショーに呼びました。
周りのヒッピーやおじいさんたちが「オーマイガー」と悲鳴を上げ、友人の膝からは血が滲み、白いフレアパンツが真っ赤のタイダイに染まる。その光景を目にしたジェリーが心配して、ステージ上から「Are you OK?」と声をかけてくれるほどでした。そのショーを見納めにして、長いデッドヘッズとの生活を終えました。
■デッドヘッズショップMOONSTRUCKを日本でオープン
――日本に帰ってからは、どんな生活をしていたんですか?
SHIN 日本に帰ってからは、代官山で手作りのセレクトショップ「MOONSTRUCK」をオープン。今はなき※同潤会アパートに空き室が出るというので見にいくと、周りに自然があり、良い雰囲気だった。今のように開発がされておらず、代官山銭湯、代官山食堂など、古き良き日本が残されていたところも気に入りました。
※同潤会アパート=19年(大正12年)に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体が、鉄筋コンクリート構造で建設したアパート。
――デッドヘッズが経営するセレクトショップとはどんな感じでしたか?
その頃は、アパレルショップも、ハリウッドランチマーケット(以下ランチ)しかない、とてものどかな時代。自分たちが手作りで店を作っていると、デッドが好きなランチの社長が「デッドに行っていたなら本物だね!」と脚立を持って手伝いにきてくれた。そのうち、ランチで働いている人たちがお客さんとして来てくれたりして、ちょっとずつ話題になったんです。
SHIN 店の入り口で「いらっしゃいませ~」と言いながら、ジョン・レノン、ボブ・マーリー、レニー・クラヴィッツ、デッドの曲を上半身裸でギターを弾いて歌ったり、友人たちとセッションをしたり。結局、デッドを追っていた頃と同じスタイルで経営をしていました。当時の自分の風貌は、長いドレッドだったのでイカつそうに見えただろうけど、実はめっちゃ優しいっていう型破りの店だったかな。
当時は、※デッドベアを探している芸能人の方も多くいて。槇原敬之さん、常盤貴子さんたちがよく買いに来てくれました。槙原さんからは「SHINくんはとても歌が上手で物まねもうまいけど、歌っていうのはね、どの曲を歌ってもSHINくんって納得させられたら本物だと思うよ」と言われた。それが今になって響いてるという(笑)。
※デッドベア=グレイトフル・デッドのキャラクターであるクマのこと。
そうこうするうち、96年には同潤会アパートが取り壊されることに。MOONSTRUCKでは1万人くらいの取り壊し反対の署名を集めましたが、その抵抗むなしく代官山アドレスの建設が始まった。そのため、路地裏への移転を強いられましたが、その頃にはMOONSTRUCK発のヒッピー・ファッションが日本中でハヤりだし、ファッション雑誌などでもかなり取り上げてもらいました。
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2024.10.02 20:00心霊マリファナでキマった僕がその時語った「デッドヘッズの予言」のページです。SHIN、グレイトフルデッド、デッドヘッズ、ヒッピー、Yousuke Koizumiなどの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで