Houxo Que(ホウコォキュウ)は、10代でグラフィティに目覚め、その後、コンテンポラリーアートの世界に転じてからは、液晶ディスプレイを用いた“新しい絵画”に挑んでいる。
現在は、企画展『CADAN × ISETAN MEN’S :Summer Takeover』(2020年6月24日~9月22日 @伊勢丹新宿店メンズ館)に出展中である。
これまで幾度も彼の作品とは出会ってきた。昨年の『TOKYO 2021 un/real engine ―― 慰霊のエンジニアリング』では、彼の液晶ディスプレイの作品は、まるで水害や浸水で地下が水没しているような生々しさで展示されていた。
さらに遡って、芸術家集団「カオス*ラウンジ」による「新芸術祭2017 市街劇『百五〇年の孤独』」では、会場となった生蓮寺跡玉露観音堂が、彼の液晶ディスプレイの作品群によってハッキングされていた。
彼の作品は、それ自体が様々な色彩の閃光を放つ“新しい絵画”として、常に強烈な存在感を主張してきた。
今年3月、「OUT of PLACE」にて開催された彼の個展『Proxy』を訪ねている。液晶ディスプレイが色彩をランダムに変化させながら、高速スピードで閃光を放っている。さらによく見ると、ディスプレイの表面には、透明アクリル樹脂のペインティングが施され、光の乱反射で抽象的な残像が浮かび上がっていた。これまでの集大成ともいえる個展『Proxy』にて、新たな未来を切り開く“画家”に話を聞いた。
――Queさんの作品は、その光の明滅にずっと見入ってしまいます。液晶ディスプレイを用いるようになったのはいつ頃からですか?
Que「2012年に液晶ディスプレイに直接ペインティングする手法を始めました。そのときから一貫して、これを“絵画”と主張しています。今回の個展は『OUT of PLACE』では3回目、シリーズの集大成的な展示になっています」
――なぜ液晶ディスプレイを用いることにしたのですか?
Que「いまでこそ、液晶ディスプレイは一般的ですが、それ以前はブラウン管でした。ブラウン管は四角く厚みがあって、立体的です。それに比較して、後発の液晶ディスプレイはどんどん薄くなってきていて、絵画により近づいてきています」
――なるほど、液晶ディスプレイは形状がすでに絵画的だったと。
Que「そうです。さらに自分が意識しているのは、絵画の歴史のなかで先行した表現をやっている作家たちなんです」
――たとえば、どなたでしょうか?
Que「例えば、自分の作品はしばしばゲルハルト・リヒターの作風を参照して語られることがあります。リヒターは写真を描くことで写真的特性(客観性・真性性)を自作に付与し、また写真と絵画の関係を改めて描き直すことで絵画を絵画として自律させようとしました。写真と絵画は構造的には異なった方法のものですが、写真の中には絵画に”似ている”ものを見つけることは可能ですし、またその逆も可能でしょう。そういった等価性を時代の中で隣接した技術に見い出し、同期と異化により更新をかける、と解釈したならば、まさに自分も同じことをしていると考えています。
また、CRT(ブラウン管)を使用したナム・ジュン・パイクも、現代における視覚表示メディアをメディウム化したという意味では、自分は後に続いている作家であると考えております。 また、同時代的に言えば、ブラウン管ディスプレイにペインティングした先例として梅沢和木さんがいるでしょう。また、自分とほぼ同時期(最初の制作は2012年)にはNYを拠点にするケンオキイシさん、あいちトリエンナーレにも出展していたエキソニモなどがいます」
――世代的にも映像機器の変遷を見てきましたね。
Que「自分は84年生まれ、ファミコン世代なので、子供の頃の原風景がRGBの光の色なんです。たとえば、印刷の色はCMYKだからくすんで見えちゃうし、絵の具で描いても自分が思い描く色彩を表現できなくて、それゆえ蛍光塗料の発光する色彩などもよく使ってきました」