【春日武彦×末井昭の新連載】悩める精神科医が「猫と母にまつわる不可思議なコンプレックス」に迫る!魅惑のニャン写真アリ

 

 今まで猫を飼ったのは、〈なると〉〈ねごと〉の二匹だけです。というよりも、犬派だったんですね。猫派じゃなかった。小学校に入る前に、芝生の庭がある一軒家に住んでいたことがあって、そこではスピッツを飼っていました。名前が〈ぽっぽちゃん〉だったのですが、どうしてそんな名前になったのかさっぱり思い出せません。

 すごく器量が良くて、でも頭は悪くて、どこやらのアイドル歌手みたいな犬でした。緑が滴る芝生を白い犬が駆け回るというのは、ある種の幸福の象徴みたいに思われていた時代があったような気がしますが、そういったものがしっかり実現されていたわけです。ドッグフードではなく、飼い主一家の残飯を〈ぽっぽちゃん〉は食べておりましたけれど。

 ある日、〈ぽっぽちゃん〉は忽然と姿を消してしまいました。逃げたわけではない。なぜなら、鎖を丁寧に外してあったからです。あの犬が、自力でそんなことをできる筈がありません。つまり盗まれたらしい。

 こんなときには、電柱や塀に「犬がいなくなりました。情報をお寄せください」といった貼り紙をするのが普通なんでしょうか。わたしの家ではそんなことをした様子はありませんでした。警察に届けたりもしていなかった。薄情なのか、そんなものなのか、今でもよく分かりません。世の中って、こんなふうに、微妙に判断に迷う事案って多いですよね。

 結局どうなったかと申しますと、父の同僚(その頃、父は保健所に勤務していました)がたまたま〈ぽっぽちゃん〉を発見したのです。盗んだのは牛乳屋でした。老夫婦で営む小さな牛乳屋で、我が家はそこから配達をしてもらっていたわけではありませんが(当時は、ガラス瓶の牛乳を毎朝配達してもらうのが普通でした)、たぶん配達途中で犬に気づいたのでしょう。一目惚れかもしれません。どうしても欲しくなって、「ウチの子になろうね」と連れ去ったのでしょう。〈ぽっぽちゃん〉も騒いで拒否したわけではなかったようなので、無理矢理力づくといったわけではなさそうでした。

 発見した人の言によれば、老夫婦と犬とはかなり仲睦まじい様子だったとのことでした。我が家全員で協議し、たぶんあの牛乳屋と暮らしたほうがスピッツは幸せみたいだねということで、そのまま不問にした次第です。案外淡々と「ま、そんなもの」と諦めてしまえたのですから、自分でも動物を飼うのは向いていないなと自覚したのでした。だから亀や金魚を飼うことはあっても、まさか50歳を過ぎてから猫を飼うようになるとは思ってもいませんでした。

〈ねごと〉と読書をする筆者(写真:春日日登美)

 いきなり猫を飼おうと思いついたのは、自分の本にも書いたのですが、休暇で出掛けたニューヨークで(べつにカッコつけているわけではありませんが、実際の話なので)、作家による朗読会がしばしば行われるような文学書中心の古い書店にて目にした光景がきっかけでした。平積みになっている本の上に、灰色の縞模様の大きな猫が平然と居座って寝ている(まさにアメリカン・ショートヘアでした)。ちょっと君の身体の下にある本を手に取りたいので移動してくれないか、なんて言い出せそうもない貫禄を見せつけている。

 それを目撃して、素敵だなあと心から思ったのでした。特に、猫と本との取り合わせが、琴線に触れたのです。我がままで、マイペースで、孤高で、態度がデカくて、しかも書物との相性がすこぶるよろしい。以来、あれよあれよと猫派となったのです。そしてしばらくしてから、三重のお寺の境内から猫を拾ってきたのでした。

 読むにせよ書くにせよ、いずれにしても本と共にひっそりと生きていきたいと考えていたわたしにとって、本との相性が最高である動物の発見は画期的でした。猫と積極的に遊ぶことが少なく、ただ一緒に静かにいるほうが幸せだと思うのはそうした経緯からです。

〈ねごと〉も、ときどき三つ指尻尾巻きポーズ(写真:春日日登美)

 幸福というものについて、ちょっと書いてみます。わたしは心の病を治すのが仕事ということになっていますが、実際のところは肺炎や骨折を治すようなメリハリの効いた治療は難しいことが多いです。そもそも家庭状況や本人の置かれている環境や立場までも調整しないと上手くいかないことが珍しくありませんし、薬だとかカウンセリングその他で容易に決着がつくほど単純なケースは少ない。そうなりますと、「治す」「治る」といった単純明快な発想はあまり意味を持たなくなってきます。

 では現実的な妥協の道を探るのかということになってきますが、それよりも、本人なりの幸福へいかに近づけていくのかといった考えのほうが適切な気がします。といっても、「あなたにとって幸福とはどのようなものですか」なんて尋ねても相手は困惑するだけです。「金と女と健康、これに尽きるぜ」なんて断言されても、今度はこちらが困ってしまう。

 分かりやすい幸福と、不可解な幸福、地味でさりげない幸福、その三種類があるような気がします。分かりやすい幸福は、それこそ金や地位、名誉、名声、美貌、健康などが相当しましょう。そしてそれらを手に入れた人たちが、必ずしも本当に満足し幸福感に包まれているとは限らないことは珍しくないようです。また、近頃さかんに取り沙汰される承認欲求とも密接に関連している気がします。

 いっぽう、不可解な幸福――他人からはむしろ不幸にしか見えないし本人も自分は幸福であるとは言わないけれども、少なくともそのような状態を本人は維持したがり、どこか充足しているようなところさえ窺える――そんな倒錯した幸福もあるように思える。例を挙げれば、駄目な夫であるうえに暴力を振るうような男との暮らしに耐えている妻の中には、それでも自分は夫に必要とされており、しかも苦境を我慢するところに自分の価値や生きがいを見出している人がいます。他人に同情されたり驚かれることで、生きる手応えを覚えている人もいる。自分の不幸が世の中に対する抗議や当てつけとして作用しているように考え、それゆえにその不幸に執着する人もいる。

 本人がそれでいいと言うなら、そのままにしておくべきか。意志の尊重は必要だろうけれど、その意志が狭い視野や誤った思い込みに基づく価値観や判断に基づいているなら、少なくとも別な視角を提供する必要があるだろう。実はこうしたケースに関わることがしばしばで、独りだけで取り組んでいると迷路に入り込むので、関係機関と連携して複数で「そもそもアプローチをすべきなのか」から始めなければならない。しかし人間の思考の多様性とか不思議さに直面するので、職業的好奇心は大いに膨らみます。

 さらに、心穏やかなときに訪れ得る「地味でさりげない幸福」。取るに足らないようなささやかな発見や感動、ほんの少し先入観を取り払うだけで世界が新鮮に見えてくる驚き、といったものがあるように思えます。先日、妻が新しい歯ブラシを洗面所に置いておいてくれました。それを目にしたとき、何だか既視感のような懐かしさが生じました。理由は分からない。でも翌日、その歯ブラシの柄が、トンボ鉛筆の8900という製品のオリーブグリーンとそっくりな色だったことに気づきました。だからどうといった話ではないけれども、そんなちっぽけな気付きだけでも日々がちょっと豊かになったような気がする。たぶんこういった種類の幸福が、実は最上のものなのではないかと勝手に思っています。

 わたしにとって猫は、このような地味でさりげない幸福をそのまま体現した存在に思えるのです。だからときには猫がライト・ヴァースや俳句と同じに思えたり、小粋な装丁の素晴らしい本と等価に感じられたりもする次第です。

 〈キー坊〉も〈ねごと〉も茶トラということで、末井さんとわたしとで接し方や思い入れの異同がいろいろ見えてきそうですね。母の話やその他も含め、これからの展開が楽しみです。

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文=春日武彦

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