怖さ限界突破の怪談「上の部屋」! 徹底取材に基づく、目黒区での超恐怖体験(川奈まり子)

 ※本記事は2018年の記事の再掲です。

作家・川奈まり子の連載「情ノ奇譚」――恨み、妬み、嫉妬、性愛、恋慕…これまで取材した“実話怪談”の中から霊界と現世の間で渦巻く情念にまつわるエピソードを紹介する。

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◾️上の部屋

 今、一編の怪談がしきりに思い出されてきて仕方がない。

 それは、1998年に光文社から刊行された阿刀田高編『奇妙にこわい話――寄せられた[体験]』に収録されている「わたしの足音」というお話だ。

 思い起こした原因を述べる前に、まずは「わたしの足音」について軽くご紹介したいと思う。

――その日の仕事を終えた独身女性である「わたし」が、自宅マンションの一階でエレベーターを待っていると、非常階段を下りてくる足音が聞こえてきた。こんな深夜に誰が……と訝しく思う。やがてエレベーターが着き、扉が開いた。すると、こちらに背を向けて中年女性が乗っていた。ごく普通の主婦のような風体だが、エレベーターの壁の方を向いている。

 その後、帰ってきていくらも経たないうちに、どうしても外せない用を思い出す。そこで近所に出掛けるためにエレベーターで降りようとしたが、さっきの女性がまた壁を向いて乗っていたので怖くなり、非常階段で下りることにした。

 夜更けに自分自身の足音が響く。すると、最初にエレベーターを待っているとき聞いた足音を思い出した。あれは「わたし」の足音だったのではないか――

 私にこの話を想起させたのは、ある一つの体験談だ。体験者さんをインタビューし、さらに私のいつものやり方で取材を追加した。

 つまり、それが今回、私が書こうとしている話なのだが、「わたしの足音」と大まかに言って3つの類似点があることを先に述べておく。

 私が取材した体験談の語り手も未婚の女性で、舞台となる場所も自宅マンションであり、そしてマンションの階段から聞こえてきた足音が深く怪異に関わっていた。

 しかし、起きた事象の筋立ては大きく異なる。舞台は東京都目黒区の、飲食店や衣料品店を含む雑居ビルと住宅用マンションが混在する比較的にぎやかな一角だ。


 目黒川は都内有数の花見所で、桜の開花時にはたいへんな人出がある。渋谷区の池尻大橋から目黒区を通って、品川区・亀の甲橋までの川沿いの約4キロメートルにわたってソメイヨシノが咲き乱れ、水上に花影を落とし、場所によっては見事な桜のアーチを築く。

 川辺には散策にちょうどいい遊歩道があり、桜の時季には日没後ぼんぼりがずらりと灯されるから、日中から夜更けまでお花見を楽しめる。

 体験談の背景となる時期は2008年の3月下旬。体験者さまのブログで確認させていただいたところ、目黒川の桜は、2008年は3月26日にはすでに見頃を迎えていたようだ。この年の東京の開花宣言は3月22日で、満開日は3月27日だから矛盾しない。

 目黒川のほとりに建つマンションを今村琴音さんが借りたのは、今から10年前、25歳のときだった。

 1980年代に建った5階建てビルの4階で、間取りは6帖半の洋間にキッチンがついた1K。川の方を向いた窓があり、内見を担当した不動産会社のスタッフが、川岸の桜並木を部屋の中から楽しめると説明した。

 その日は3月20日。前日から雨が降り続き、冬に戻ったかのように冷え込んでいたから、不動産屋に言われるまで、今村さんは桜のことなど思いつかなかった。言われてみれば……とハッとして窓から外を眺めたら、目黒川の川面と桜並木がちょうど見おろせた。

 桜の花ほど、卒業や門出のイメージとマッチするものはない。今村さんは、今回の引っ越しを利用して、腐れ縁になっているカズヤという男と縁を切ろうと考えていた。この部屋と出会ったのは運命だ、と、天啓を受けたように感じ、その後に予定していた内見を中止して、即決でここを借りることにした。

 ところが、だ。問題のカズヤが、引っ越し当日に新居に押しかけてきてしまったのだった。しかも結局、追い返すことができなかった。いがみ合いつつ協力して片づけを終え、ベッドで背を向け合って横になったのが12時近く。

 今村さんは心身ともに疲れ切っていたので、すぐに眠ってしまった。

――夢の中で何かショッキングな出来事があり、驚いて目が覚めた。

 起きた途端に夢の内容は思い出せなくなった。ただ、心臓がバクバクいって、息が上がり、ひどく喉が渇いた。

 部屋は仄かに明るかった。なんだろうと思ったら、川沿いの街灯がカーテンを照らしているのだった。

 電気を点けなくても、壁掛け時計の文字盤が読めた。

 午前2時。

 今村さんは足音を殺して台所の方へ行き、水道の水を細く出して静かにグラスに注いだ。ベッドを下りるとき確認したら、カズヤは熟睡しているようだった。だから起こさないように気をつかったわけだが……。

「おい!」

 いきなり間近から大声で呼ばれて、グラスを落としそうになった。水が大きく揺れてグラスの縁を飛び越え、床にビシャッと落ちた。

「……えっ?」

 振り向いたら、声がしたと思った自分のすぐ後ろに誰もいなくて驚いた。カズヤが起きてきて脅かそうとしたのではなかったのか? てっきりそうだとばかり……。

 だが、見れば彼はベッドで眠っていた。

 ぞわりと鳥肌が立った。しかし今村さんは、声などしなかったのだ、きっと寝ぼけていたのだと自分に言い聞かせながら、水が残ったグラスをシンクに下げてベッドに戻った。

 枕に頭をつけたとき、階段を駆ける音が遠くから聞こえてきた。

 足音は、近づいたと思ったら、すぐに遠ざかっていった。その直後、何か重たい物が床に倒れたかのように天井がドンと一回鳴って、あとは静まりかえった。

 今村さんは、上の部屋の住人が帰ってきて、荷物を乱暴に置くか、転ぶか何かしたのだろうと想像した。運動不足を解消するためにエレベーターを使わない人は珍しくない。私は疲れるから御免だわ、と思っているうちに寝入ってしまった。

 朝、今村さんはカズヤに肩を揺すられて起こされた。

「流しでコップが割れてるけど、どうしたの?」

 急いで台所に行くと、たしかにシンクの中で昨夜使ったグラスが粉々になっている。金槌か何かでしつこく叩いたような割れ方だった。

「夜シンクに置いたときは何ともなってなかったのに、どうして……」
「怪我は? そこに血みたいなのが落ちてる」

 大声に脅かされて水をこぼしたのと同じ所に、血がしたたり落ちたとしか見えない赤黒い汚れがあった。

 しかし水が血になるわけがない。

 拭くときに臭いをかいでみると、特有の鉄臭さを感じたから、たぶん本物の血液だ。今村さんはどこにも怪我はしていなかった。生理でもない。

「不思議。なんだか怖いな」
「こんなところに住まないで、僕のうちに来たらいい。一緒に暮らそう」
「イヤよ。ちょっと変なことがあったからって……。引っ越してきたばかりなのに」

 ガラスを片づけてから、連れ立って部屋の外に出た。今村さんがエレベーターを待とうとすると、カズヤは「階段の方が早いよ」と言って、さっさと階段を下りはじめた。

 今村さんはそのままエレベーターを待つことにして、カズヤの背中を見送った。彼の姿はすぐに見えなくなり、足音だけが下に遠のいていく。

 すぐにエレベーターが着いて、乗り込んだ。

 ところが、エレベーターのドアが閉まる直前に、重い足音が階段を駆けあがってきた。今村さんは急いでエレベーターの操作盤に付いている「開」のボタンを押した。閉じかけていた扉が開くと、外に顔を出して大声で呼びかけた。

「どうしたの? 忘れ物した?」

 てっきりカズヤが戻ってきたのだろうと思ったのだ。

 だが彼の返事はなく、足音だけが近づいてきた。太い骨格と筋肉や脂肪がみっしりと充実した体格を思わせる、重たい足音だ。

「カズヤ?」

 何の応答もなく、足音だけが駆けあがってくる。今村さんは背中が冷えるような心地がして、わけもなく焦りながら「閉」ボタンを押した。

 その日から度々、昼夜を問わず、今村さんは、階段を駆けのぼる足音を耳にするようになった。

 聞こえるのは、4階の自室にいるときか、エレベーターを乗り降りする前後だった。また、足音は必ず、下から登ってきて、5階に駆け抜けていった。

 真夜中に天井がドシンと鳴って目が覚めてしまうことも、3日おきぐらいにあった。

――ほら、また、今夜も。

 ベッドに仰向けに横たわり、今村さんは今や聞きなれた感じがする足音を聞いた。鼓膜に神経を集中させると、階段を走る男の息遣いまで聞こえるような気がしたが、もちろん実際には空間と壁に隔てられた遠い靴音がするだけだ。

 下から駆けあがって、上の階へ行くこの人は、ここの真上に住んでいる。今村さんは、今やそう確信していた。

 引っ越してきたのは23日で、日曜日だった。あれから3日が経つ。

 目が冴えてしまい、今村さんは起きあがって、窓辺から夜桜を眺めた。

 紅白のぼんぼりが灯り、九分咲きの桜が幻想的に照らし出されていた。薄紅色に輝く雲が見渡すかぎり川沿いに連なっている。もう深夜だが、そぞろ歩きする人影がちらほら見えた。

 こんどの週末は女の友人たちとお花見しよう。カズヤのことは誘わずに。

 今村さんがベッドに戻ると、真上で天井が恐ろしい音を立てた。大柄な男が倒れる姿が頭に浮かび、しばらく天井を見つめていたが、音は一度だけで、あとは死んだように静かになった。 

カズヤは引っ越した日に来て泊まっていっただけで、以来、今村さんの部屋を訪れることはなかった。

 今村さんから連絡するつもりはなかったが、あちらも、うんともすんとも言ってこない。

 彼との関係がこのまま自然消滅しますように。今村さんはそう願っていた。

 3月29日、土曜日。今村さんは女友だちを3人、部屋に招いた。皆で窓から桜並木を眺めて、ケータリングのピザを注文して食べた。日が暮れて川沿いのぼんぼりに明かりが灯ると、外に繰り出して川べりのカフェバーや居酒屋を夜遅くまでハシゴした。

 楽しい時間はあっという間だ。夜が更けて、友人たちが渋谷行きの最終バスに乗って去っていくと、今村さんはひどく寂しくなった。

 皆を見送ったバス停から自宅マンションまでは徒歩で約5分の道のりだ。痴漢やひったくりに遭わないように用心して、人の多い道を選んで歩いた。

 マンションの建物が見えてきて緊張を解いた直後、1メートルと離れない背後に体が大きな人物が迫ってきたような圧力を感じた。

 急に脈が速くなり、おっかなびっくり振り返った。

 けれども人混みがあるばかりだった。折しも風が吹いて桜吹雪が舞い、人々が歓声をあげた。

 今村さんは人々の中にカズヤが隠れているのではないかと思ったが、彼の姿も見当たらなかった。

 そこからは小走りでマンションの建物まで戻った。早くうちに帰りたかった。足音や天井の音は気になるが、誰かに後をつけられる方がずっと怖い。

 だが、こういうときに限ってエレベーターがなかなか来なかった。

 今村さんは焦って何度もボタンを押した。故障かもしれないと思ったが、夜遅かったので、マンションの管理人を呼びだすのは気が引けた。

 部屋は4階だから階段を上っていくのは簡単なことのようだけれど、今村さんはここの階段を使ったことがなかった。

 例の足音を不気味に感じていたのだ。出来れば階段は避けたかった。

 しばらく粘ったが、エントランスのガラス扉に酔っ払いがぶつかってきて死ぬほど驚き、それでついにエレベーターをあきらめた。

 階段を上りはじめたときは、変わったことは何もなかった。

 マンションの一歩外は目黒川沿いの遊歩道で、まだ大勢の花見客でにぎわっていた。近所の店でかけている陽気な音楽が、夜の中を漂っている。街灯は明るく、そのうえ今は紅白のぼんぼりもあり、町全体が桜色に仄かに輝いているようだった。

 こんな楽しい、桜祭りの晩だもの、怖くない怖くない――と、今村さんは心の中で念じながら、1階と2階の間の踊り場まで来た。

 ここの階段は、各階の踊り場で180度方向転換する、ビルでは一般的な構造だ。

 踊り場で向きを換えて登りはじめたとき、今村さんは後ろから足音が上がってきたことに気づいた。

 髪が一斉に逆立ち、冷たい汗がたちまち背中を濡らしはじめる。一瞬、硬直して立ち止まってしまった。すると、自分の足音にわずかに遅れて、ゴトッと、靴底が硬い革靴かブーツの足音が下の方から響いてきた。

 声も出さず、振り返りもせずに、今村さんは階段を駆け登りはじめた。

 2階で再び方向転換したそのとき、下から来る大柄な黒い影が視界の隅に入った。

 恐怖の針が振り切れてパニックに陥り、そこから4階まではどうやって登ってきたのかわからない。後に落ち着いたときに脚のあちこちに痣ができて、爪の先が折れていたから、階段の途中で転びかけて脛を打ったり、両手も使って這い登ったりしたようだ。とにかく死に物狂いで駆けてきて、震える手で鍵を取り出して自分の部屋のドアを開けた。

「おい!」

 声がすぐ背後から。

 カズヤの声だった。

 ハッとしたが、後ろから声も出さずに追いかけてきた彼という男を、見知らぬ誰かよりも、かえって恐ろしく、油断のならない相手だと感じた。

 そこで玄関の中に体を滑り込ませると、急いでドアに鍵を掛けた。

「……カズヤ?」

 恐る恐るドア越しに声を呼んでみた。

 が、ドアの向こうは沈黙していた。覗き穴に目を押し当てて、外のようすを確認したら、誰もいない。さっきの「おい!」は間違いなくカズヤの声だったのだが。

 彼は、あきらめて帰ったのだろうか?

 もしもそうなら、二度とこんな真似をしないようにメールか電話で注意した方がいいかもしれない。

 来ないように言っても無駄だろうか。だったら、ここを引き払うしかない。一時的に実家に帰って、貯金した方がいいかもしれない。

 憂鬱な気分でシャワーを浴びて、寝る支度を整えていたら、またしてもいつもの足音が聞こえてきた。

 ほら、また、下から駆けてきて、上の階へ登っていく……。

 5階の人が今、帰ってきたのだとすると、さっき後ろから来たのは、やはりカズヤだったのだ。間違いない。

 ここまで私に話すと、今村琴音さんは大きく息を吐いて少し沈黙した。

 辛い記憶を蘇らせると、精神的に参ってしまうものだ。疲れてしまったのだろう。ここから先の展開も、楽しいものではなさそうだし……。

「今村さん、大丈夫ですか? 少し休憩しましょう! もしお辛いようでしたら、この続きは明日にしても構いませんよ」

「いえ! いいえ……いいえ! 今、話します。ここから先が、誰に言っても信じてもらえなさそうな変なことで、だからこそ川奈さんに聞いてもらいたかった出来事なんですよ」

「変なこと、ですか?」

「ええ。翌朝カズヤにパソコンからメールを送ろうと思ったら、登録してあったはずの彼のメールアドレスが見つからなかったんです。連絡帳から削除されたというより、元から無かったみたいに痕跡すらありませんでした」

「それは奇妙ですね。過去の送受信の履歴があったでしょう?」

「それも全然、無かったんです。びっくりして携帯電話の方を見たら、メールアドレスも電話番号も、履歴も、こっちも消えてました」

「まるで最初から存在しなかったみたいですね?」

「ええ! でも、そのときは、とにかく連絡を取りたいと思ってましたから、そこまでは思いませんでした。カズヤはSNSをやっていなくて、共通の知り合いもなかったから、誰かに伝言を頼むことも出来ない……と、考えていたら、ふと、思ったんですよ」

「何をですか?」

「彼は誰から、うちの住所を聞いたのかな?って」

「引っ越し先の住所を、カズヤさんに教えていなかったんですか?」

「隠していました! 別れようと思っていたから。私はまだ、両親と職場の人と、花見に来た友だちにしか住所を知らせていませんでした。だから念のためそれらの人々には、男性から問い合わせがなかったか訊きましたけど、誰も私の住所なんか訊かれたことはないって……。その辺からですね、私がだんだん、カズヤってどこの誰なんだろうと思いはじめたのは」

「え? 腐れ縁になっていたんじゃなかったんですか?」

「それがどうも、おかしいんです。不動産屋に足を運んだときから、自分の中ではカズヤという男と長年つきあっていて、別れたりくっついたりしてきたというストーリーが出来あがっていて、すっかり信じ込んでいましたが、いつどこで出逢ったのか、どんなふうに付き合ってきたのか、全然具体的じゃなかったんですよ。一緒に写真を撮ったこともありませんでしたが、当然、ツーショットをたくさん撮っていたような気がしていました」

「では、もしかすると、カズヤさんという男性は実在しなかった?」

「そう思った方が合理的に説明がつくでしょう? 納得できませんでしたし、今でも不思議でしょうがないんですけど」

「本当に奇妙な体験をされましたね……」

「あっ、川奈さん! これでおしまいじゃなくて、まだ続きがあるんですよ!」

「そうなんですか?」

「階段で追いかけられてから2、3日後に、ゴミ捨て場でマンションの管理人さんに会ったので、うちの部屋の真上に住んでいる人がしょっちゅう階段を駆けあがっていったり、ときどきバッタリ床に倒れたようなとても大きな音を立てるのですが、と話したんです。そうしたら管理人さんが顔を引き攣らせて、『今、お宅の上の部屋には誰も住んでいませんよ』と言ったから、それでもう、怖すぎて住めないと思って、実家に戻ることにしたんです」

 実家に戻ってからは何事もなく、今村さんは次第にカズヤの顔が思い出せなくなってきて、10年経った今では、彼の目鼻立ちや髪型などもすっかり忘れてしまったということだ。

 今村さんのインタビューを終えてから、私は件の目黒川沿いのマンションを訪ねてみた。

 築約35年になる5階建てのビルで、管理人が常駐しているようだ。

 彼女が住んでいた部屋の真上は、私が訪れたときも空き部屋になっていた。たぶん偶然だ。

 しかし、事故物件情報サイトで調べたところ、1985年にそこで男女の心中事件が起きていたことがわかった。だから5階のその一室は、他の部屋よりもやや高い確率で空室になるのかもしれない。事件後かなり年数が経っているからすでに告知義務はないが、インターネットで住所や部屋番号を検索すれば事件のことがわかってしまうから。

 七輪を使った練炭自殺だったそうだ。

 最悪だ。練炭自殺は、ご遺体の様子こそ眠っているかのようではあるが、実は少しも楽な死に方ではないのだ。その逆で、これ以上ないというぐらい苦しいのだという。

 練炭自殺は、一酸化炭素中毒によって死のうとするものだ。一酸化炭素中毒では、まず先に手足や口など末梢の神経が麻痺する。その後ゆっくりと、中枢神経にダメージが広がっていく。

 つまり、どういうことになるかというと――動けない肉体の檻に閉じ込められて、途轍もなく激しい頭痛と内臓が抉られるような吐き気を覚えるのだという。しかも、その時点では、まだ思考能力が残されている。だから、苦悩や恐怖に最期まで徹底的にさいなまれながら、じわじわ死んでいくことになる。

 心中したカップルのうち、男性の方の名前が「カズヤ」だったかどうかはわからない。調べてみたいと私が話したら、今村さんに止められたのだ。

「もし本当にその人がカズヤだった場合、私は幽霊と寝ていたことになりますよね。そう確定してしまったら、普通に生きていけなくなってしまうような気がします。よくわからないままにしておいてください。お願いします」

「……わかりました」

 私は今村さんに約束したから、この件については、もしも事実がわかったとしても、どこにも書かないし、誰にも言わない。

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文=川奈まり子

東京都生まれ。作家。女子美術短期大学卒業後、出版社勤務、フリーライターなどを経て31歳~35歳までAV出演。2011年長編官能小説『義母の艶香』(双葉社)で小説家デビュー、2014年ホラー短編&実話怪談集『赤い地獄』(廣済堂)で怪談作家デビュー。以降、精力的に執筆活動を続け、小説、実話怪談の著書多数。近著に『迷家奇譚』(晶文社)、『実話怪談 出没地帯』(河出書房新社)、『実話奇譚 呪情』(竹書房文庫)。日本推理作家協会会員。
ツイッター:@MarikoKawana

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