誤って粒子加速器に頭を入れてしまい“陽子ビームの直撃”に遭った科学者はどうなったか

 人類史上でただ一人、陽子ビームの直撃に遭った人物がいる。当時最大の粒子加速器の陽子線が物理学者の頭を撃ち抜いたのだ。

■粒子加速器の陽子ビームが後頭部を直撃

 冷戦時代のソ連には60もの科学系新興都市があった。科学者が家族と同居したまま、世間の目が届かない場所で極秘の研究に専念する環境が整えられていたのだ。

 モスクワ州にある小さな都市、プロトヴィノはこの時代、核関連の研究に専念するための新興都市であった。

 物理学者のアナトーリ・ブゴルスキー氏(1942~)は1978年にプロトヴィノの「高エネルギー物理学研究所」で研究員として働き始め、そこで当時最大の粒子加速器であった「U-70」の運用に従事していた。

粒子加速器「U-70」 画像は「YouTube」より

 1978年7月13日、ブゴルスキー氏は故障した機器を点検するために加速器の中に頭を突っ込んだところ、安全装置が解除されていた加速器が発生させた陽子線のビームを後頭部に受け、脳から顔へと貫通する事故に遭ったのである。

 致死量の300倍から600倍ともいわれる20~30万ラド(rad)の放射線を浴びたブゴルスキー氏は、自分の身に何が起こったのかを理解していたが、痛みも特になかったので中断することなく作業を終えてその日の勤務の最後、業務日誌にこの一件を書き記したのだった。

 その後、頭と顔が腫れあがったブゴルスキー氏はモスクワの診療所に緊急搬送されたのだが、容体を診た医師らは彼が数日以内に死亡することを確信したという。

 数日後、ブゴルスキー氏の後頭部と左鼻孔付近の皮膚が剥がれ始め、これによりビームが彼の皮膚、頭蓋骨、脳組織を貫通した経路が明らかになった。

「Howandwhys」の記事より

 医師らの予測に反してブゴルスキー氏の命に別状はなく、常に歩くこともできたといわれている。

 退院してからのブゴルスキー氏は研究所に復帰し素粒子物理学者として問題なく働き続けるばかりか、博士号を取得するほどの業績をあげたのだ。

■「人間の生存能力が試されている」

 このように知的能力は衰えてはいなかったブゴルスキー氏だったが、頭脳労働による疲労を感じるようになり、左耳の聴力は失われ、事故から2年後には神経の破壊により顔の左半分が麻痺してしまった。

 年を経るごとにブゴルスキー氏の顔の右半分は年齢相応の老化が見られるのだが、興味深いことに麻痺したほうの左半分は19年前から時が止まったように若々しいままであるという。

「Howandwhys」の記事より

 時折発作が起きる症状に見舞われるようになったものの、日常生活に支障をきたすことなく研究者としての職務を全うし今も存命中のブゴルスキー氏だが、この事故は政府当局の守秘範囲に含まれるものであったたため十数年間は明かされることはなかった。

 ブゴルスキー氏は今も年に2回、モスクワの放射線診療所を訪れて検査を受け、原発事故犠牲者に会って親交を温めているのだが、彼はほかの犠牲者たちに比べて自分は幸運だと考えているという。

 ソ連崩壊後に事故が知られるようになり、ブゴルスキー氏の功績が讃えられたが、1996年に彼がてんかん治療薬を無償にするために障害者資格を申請すると状況は一変してしまったという。ソ連崩壊後の地方自治体には予算がなく、障害者申請は却下され、てんかん治療薬の入手に今も苦労しているということだ。

 ブゴルスキー氏は西側の研究者に自分のことを知ってもらいたいとも考えており、自分が誰かにとって興味深い研究になると確信しているという。自分の状況を陽子ビームに撃たれた後の“生存テスト”であるともとらえている。

「これは事実上、陽子戦争の意図せぬ実験です。私は試されています。人間の生存能力が試されているのです」とブゴルスキー氏は語る。

 人類で唯一、陽子ビームで撃ち抜かれた人物だけに、その去就には引き続き注目が集まる。

参考:「Howandwhys」ほか

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文=仲田しんじ

場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。
興味本位で考察と執筆の範囲を拡大中。
ツイッター @nakata66shinji

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