最後の晩餐の舞台に刻まれた“旅人たちの落書き” ― キリスト教聖地の知られざる歴史

イエス・キリストが磔刑前夜、12人の使徒たちと最後の食事を共にしたとされる「最後の晩餐」。その伝統的な場所とされるエルサレムのシオン山にある「セナクル(Cenacle)」と呼ばれる建物で、壁に隠されていた古い書き込み(碑文)が解読され、歴史の新たな一面が明らかになってきた。
この発見は、セナクルが中世において、多様な地域からの巡礼者が集う、極めて重要な信仰の中心地であったことを示唆している。
壁が語る中世の国際交流
考古学者チームは、セナクルの壁に残された約40の印や文字を最新技術で分析。その結果、中世(1300年~1500年頃)にアルメニア、チェコ、セルビア、アラビア語圏の東方キリスト教徒、そして西ヨーロッパなど、実に様々な地域から訪れた巡礼者たちによって残された「落書き」とも言える書き込みを解読することに成功した。
聖書によれば、最後の晩餐の場所はエルサレム旧市街の城壁外にある「準備のできた広い二階の部屋」とされており、セナクルの外観はこの記述と一致する。しかし、この建物は1523年にイスラム教徒によって占領されモスクとなり、その際に壁に漆喰が塗られたため、これらの書き込みは長い間隠されてきたと考えられている。「所有者が変わった後、多数のキリスト教の碑文や紋章、巡礼者の書き込みをそのまま放置するとは考えにくいため、おそらく占領後すぐに漆喰が塗られたのだろう」と研究者たちは推測する。

紋章、名前、祈り… 壁画が明かす巡礼者の姿
調査チームは、死海文書のデジタル化にも用いられる高度な画像処理技術を駆使し、壁に残された書き込みを分析。30の碑文と9つの図像を鮮明に浮かび上がらせた。
そこには巡礼者たちの母国語による名前や祈りの言葉に加え、最後の晩餐を連想させるワインの杯、大皿、パンを描いたと思われる絵も見つかった。また、遠方からの長旅を思わせる船の絵や、ヨーロッパ貴族のものと思われる紋章も確認された。
キリスト教徒だけではなかった? イスラム教徒の痕跡も
驚くべきことに、書き込みを残したのはキリスト教徒だけではなかった。チームはアラビア語の碑文の断片も解読。「…ya al-Ḥalabīya」と記されており、これはシリアのアレッポ出身の女性巡礼者によるものだと研究者は結論付けている。これは近代以前の女性による巡礼の貴重な物的証拠となる。

さらに、イスラム教徒によって刻まれたと思われるサソリの絵も発見された。キリスト教徒の書き込みが主に木炭などで書かれていたのに対し、イスラム教徒による碑文やサソリの絵は、壁に深く刻み込まれていたという。「これは所有権を示すための行為であり、万が一建物がキリスト教徒の手に戻ったとしても、自分たちの痕跡が消されないようにするためだったのだろう」と研究者は分析している。


中世エルサレム巡礼の多様性と今後の課題
共同研究者であるオーストリア科学アカデミーのイリヤ・ベルコビッチ氏は、「これらの書き込みを総合すると、中世における巡礼者の地理的な起源に関するユニークな洞察が得られます。それは、現在主流となっている西欧中心の研究観が我々に信じさせてきたものよりも、はるかに多様性に富んでいたのです」と語る。
一方で、セナクルが本当に「最後の晩餐」が行われたその場所であるかについては、まだ確定的な証拠はない。現在の建物の大部分は十字軍時代のものであり、イエスが生きていた1世紀のものではない可能性が高い。考古学的な発掘調査も現状では難しく、シリア正教会などが主張するように、聖マルコ修道院など別の場所が実際の場所だったとする伝承も存在する。
とはいえ、今回解読された壁の書き込みは、セナクルが長年にわたり、多様な背景を持つ人々に聖地として深く敬われてきた紛れもない証拠と言えるだろう。この発見は、中世エルサレムの歴史と信仰のあり方に、新たな光を当てるものとなりそうだ。
最後の晩餐の真実の場所はどこであれ、この壁は多くの巡礼者の「祈り」を聞き届けてきたのだろう。
参考:Daily Mail Online、ほか
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2024.10.02 20:00心霊最後の晩餐の舞台に刻まれた“旅人たちの落書き” ― キリスト教聖地の知られざる歴史のページです。聖地、落書き、最後の晩餐などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで