舩坂弘の最強伝説!!太平洋戦争で死亡3日後に蘇生した不死身の日本兵
■ランボー顔負け 約1万人の敵兵の中に1人で乗り込む
この時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢約1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。もはや1万人対1人の肉弾自爆である。瀕死の状態にもかかわらず、手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って3日間寝ずに這い続け、前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点まで潜入していた。
この時、舩坂が受けた負傷は戦闘初日から数えて大小24カ所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2カ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5カ所、さらに右肩捻挫、右足首脱臼といった大ケガを負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20カ所に食い込んだ砲弾の破片によって本来なら動くこともままならない状態であった。
米軍ジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に安全栓を抜いた手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、茂みから立ち上がった。幽鬼かゾンビのようないでたちに、米兵たちも目を疑うほどであったという。
■戦死と判断されるも、3日後に蘇生!?
茂みから出てきた舩坂は米兵によって、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。すでに伝説となっていた舩坂に対し、米軍軍医は、無駄だと思いつつも野戦病院に運び、死体安置所に置いた。この時、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の野次馬に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語った。
ところがである。3日ほどして、舩坂は死体安置所にて息を吹き返し、むっくりと起き上がったのである。これには監視の米兵も恐怖に凍りついたという。もはや敵ながら米軍も舩坂に対し、敬意さえ払うのであった。
その後、米軍の治療を受けて歩けるまで回復すると、重傷者の病棟の警備が甘いのをいいことに、看守の目を盗んで脱走してしまうのである。そして戦場に散乱する日本兵の遺体から火薬だけ抜き取り、1キロも離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進し、爆破してしまうのである。爆破後は来た道を戻り、翌朝の自軍の点呼に何食わぬ顔で参加している。もうここまでくると、舩坂は本当に人間なのか疑わしいほどだ。
その後、舩坂は再び捕まり、捕虜になる。そして、ペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に日本に帰国した。
■帰国
故郷である栃木の実家では、45年12月に舩坂の戦死公報が届けられていたため、誰もが戦死したものと思っていた。ボロボロの軍衣で帰還した実家で、ご先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、そこに真新しい位牌があって、「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたという。村の人々も、帰ってきた傷だらけの舩坂を見て、これは幽霊に違いないとしばらく噂した。
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2024.10.02 20:00心霊舩坂弘の最強伝説!!太平洋戦争で死亡3日後に蘇生した不死身の日本兵 のページです。アナザー茂、偉人、アンガウル、第二次世界大戦、舩坂弘などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで