秘伝の毒殺技術、乱交パーティー…! ヤバすぎる一族「ボルジア家」の血塗られた歴史

■ボルジア家秘伝の毒殺で政敵を次々と始末

 歴史上の英傑・アレキサンダー大王にちなんで自ら「アレクサンデル6世」と名を改め、教皇として“治世”に乗り出したロドリーゴだが、就任後、何はなくとも優先させたのはようやく手に入れた権力の基盤を強固にすることだった。

秘伝の毒殺技術、乱交パーティー…! ヤバすぎる一族「ボルジア家」の血塗られた歴史の画像2チェーザレ・ボルジア 画像は「Wikipedia」より

 まずロドリーゴは愛人に産ませた息子である16歳のチェーザレを大司教に任命し、今後の大仕事を前に片腕として起用した。そしてまた、同じ愛人に産ませた美貌の娘・ルクレチアを政略結婚の道具にすることで、ロドリーゴが思う存分暴れ回る舞台が整ったのだ。ちなみにこのチェーザレとルクレチアは同じ愛人から生まれた実の兄妹であるのだが、お互いに愛し合う関係であったといわれている。

 そしてアレクサンデル6世ならぬ、暴君ロドリーゴの世が到来する。教皇庁内で気に入らない者や利用価値のない者などを次々罠にかけて毒殺したのだ。いうまでもなく毒殺の実行犯はチェーザレである。犯行に用いられたのは「カンタリス」と呼ばれる白い粉状の毒薬であるといわれ、詳しい成分はわかっていないがボルジア家で代々伝えられている毒薬であるという。ボルジア家は毒殺のプロでもあったのだ。また、こうして“始末”した教皇庁内の人物の残された財産をことごとく没収し、ロドリーゴの資産は膨れ上がっていったのだった。

 一方、ルクレチアの最初の政略結婚はミラノ公国の名家の息子であったが、その後ミラノ公国との同盟が解消されて利用価値がなくなると、ロドリーゴはすぐさま娘の夫の毒殺を命じたという。しかしこの毒殺は実行直前に逃げられてしまい未遂に終わった。

 独り身になったルクレチアに、軽率にも侍従の若者が近づき身体の関係を持ったのだが、それを知ったチェーザレは激怒し、剣を抜いて若者を追いまわして刺し殺したという。

 ルクレチアの2番目の夫はナポリ王国の貴族の息子だったが、これもまた途中でナポリ王国との関係が重要なものでなくなり、この夫はその後チェーザレたちに殺されることになった。また、一時期ローマ教皇庁でかくまっていたオスマン帝国のバヤジット2世の弟であるジェム王子がフランスへ身柄を引き渡された後に謎の死を遂げたのも、チェーザレの仕業であると考えられている。ボルジア家の人間にとって、遅効性のある毒薬の扱いもお手の物であったようだ。

秘伝の毒殺技術、乱交パーティー…! ヤバすぎる一族「ボルジア家」の血塗られた歴史の画像3ルクレチア・ボルジア 画像は「History Extra」より


■聖なる宮殿で何度も催された乱交パーティー

 ローマ教皇という立場でありながら毒殺を何とも思わないロドリーゴは、一方で性に関するモラルも“タガが外れて”いた。生涯独身を貫き禁欲を旨としなければならない聖職者という立場を全く意に介さず、宮殿に愛人や売春婦を呼ぶことが常態化していたという。記録されている中で最も悪名高いのが1501年10月30日に宮殿で開かれた「栗拾いの宴(Banquet of Chestnuts)」と呼ばれる乱交パーティーだ。

 チェーザレが主催したといわれているこの栗拾いの宴には、教皇庁内の枢機卿たちが招かれ、50人にも及ぶ全裸の売春婦たちが参加者を“楽しませた”ということだ。この宴の目的は、アレクサンデル6世を非難する教皇庁内の声をなだめるためともいわれ、また枢機卿たちに無礼講をさせることで“弱みを握る”ためともいわれている。

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