事故で致死量の放射線を浴びても回復した“アトミックマン”の地獄の晩年! 米政府や人々の冷徹さが浮き彫りに!
■事故後のマクラスキー
1997年に書かれた本『On The Home Front:The Cold War Legacy of the Hanford Nuclear Site』の著者であるマイケル・ガーバーは、マクラスキーの恐ろしい事故を著書で詳しく説明している。
「マクラスキーはグローブボックスに茶色の煙がたまっているのを見て、危険を察知し、逃げようとしたがまさにその時、爆発が起きた。彼が着けていたゴム製防毒マスクは裂け、彼は有毒なアメリシウムを吸入した。彼の肌には金属片とガラス片が突き刺さり、目は酸で焼け見えなくなった。彼を治療したハンフォード環境健康財団の医師ブライス・ブレインテンシュテイン医師によれば、マクラスキーはほんの数分で放射線医師が生涯安全と考える500倍の放射線を浴びて被ばくした」(著書より)
その後、血まみれのマクラスキーはワシントン州リッチランドにあるハンフォード緊急除染施設に運ばれ、彼はここに3週間近く隔離されていた。訪れた彼の妻と2人の娘は彼がまだ放出している放射線を恐れ、10メートル以内には近寄れなかった。
マクラスキーは1984年「ピープル」誌に、治療時のことをこう語った。
「多くの医師のうち9人はチャンスは半々だと考え、残りは頭を横に振った」
5カ月間医者は毎日ピンセットを使って、マクラスキーの肌に食い込んだガラス片と金属片を掘り出した。彼はその痛みを深い信仰によって耐えた。
また医師たちは毎日マクラスキーの肌を擦過し、体毛も剃った。そして放射性物質を排泄するのに役立つ実験的薬物である「亜鉛DTPA」を600回にわたって注射した。
2015年、医学博士のユージン・カルバウはマクラスキーの除染過程についてこう述べている。「彼に行った除染は広範囲にわたり、また困難なもので完全に終了することはできなかった」
■マクラスキーのその後
1977年1月、マクラスキーは遂に帰宅を許された。しかし帰宅すると彼は、治療とは別の苦しみに遭遇した。
彼の故郷のワシントン州プロッサーで、彼は今や「アトミックマン」として知られていた。 除染により彼の体からアメリシウムの大部分は取り除かれていたが、頭の近くに放射線検出器を持っていくとまだアラームがなるような状態であった。このため、人々は彼から放射線が発せられていて危険だと思った。
マクラスキーは人々から避けられ、幾人かの友人は「ハロルド、あなたのことは好きだけど、私は決してあなたの家には行けないよ」と口にした。1984年のインタビューで彼は、散髪する時も床屋に迷惑をかけたくないので、行く店を転々と替えていると話した。
マクラスキーの妻のエラによると、彼はハンフォード核処理施設を運営するエネルギー省に1億円の損害賠償を訴えた。しかし政府は賠償金を払うことに難色を示し、結局支払われたのは約3000万円だった。それもマクラスキーが死亡した時に、検死解剖をするという条件付きのものであった。
事故後、マクラスキーはこう語った。
「時には嫌な気持ちになるが、恨みを持ち続けても事態はさらに悪くなるだけだ」
しかし妻のエラの意見は異なり、「核処理施設の広報は、この事故をよくある産業事故のように見せようとしています。でもこれは夫の人生を破壊した大惨事なのです」と怒った。
マクラスキーは事故後から死亡するまで、医師によって研究され続けた。1987年8月、75歳で彼は持病の心臓疾患が原因で亡くなったが、解剖してもがんの徴候は見られなかった。
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2024.10.02 20:00心霊事故で致死量の放射線を浴びても回復した“アトミックマン”の地獄の晩年! 米政府や人々の冷徹さが浮き彫りに!のページです。放射線、三橋ココ、被爆、アトミックマン、プルトニウム、核処理などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで