【実話怪談】かぐわしい香りと共に現れた謎の美女 ― 川奈まり子の情ノ奇譚『秋の香り』
作家・川奈まり子の連載「情ノ奇譚」――恨み、妬み、嫉妬、性愛、恋慕…これまで取材した“実話怪談”の中から霊界と現世の間で渦巻く情念にまつわるエピソードを紹介する。
【十一】秋の香り
ソウル五輪が終わってしばらくした頃だというから、今から約30年前、1988年10月の出来事だ。
東北地方出身の鈴木敦彦さんは、当時、横浜国大に進学した弟の寮によく泊まらせてもらっていた。
鈴木さん自身は高校を卒業してから上京して、都内の会社に勤務していたが、どうかすると週の半分くらい弟の部屋に転がり込んでいた。弟とはもともとたいへん仲が良かった。それにまた鈴木さんもまだ22歳だったから、寮にいれば大学生に見えないこともなく、誰からも怪しまれなかったのだ。
弟の寮というのは、《蒼翠寮》という横浜国大の学生自治寮だった。今の国大附属鎌倉中学校の辺りにあり、元は神奈川県師範学校の寄宿舎だった建物だという話だが、廃屋と見紛うほど古くて朽ちかけていた。しかし大学生の完全自治によって運営されていたせいか、寮の中には自由で破天荒な空気が吹いていて、若くしてサラリーマン生活に入った鈴木さんには、それが面白かった。
弟の部屋は12畳の土間(当時ですら土間があることは全く普通ではなかった)と12畳の畳の部屋からなる1室で、本来は先輩と2人でシェアすることになっていた。ところが先輩が恋人の家に泊まりっぱなしで寮に帰ってこなくなったので、偽学生の鈴木さんが居候しやすい状況だった。
鈴木さんは炊事が苦にならないたちで、泊まらせてもらう代わりに、と、弟やその仲間たちに食事を作ってあげることも多かった。米を炊いて簡単なおかずをこしらえるだけだが、とても感謝され、美味いと言って食べてもらえる。それだけのことが、鈴木さんには非常に励みになり、また食事を作ってやろうと思うので……入り浸りのループがますますしっかりと出来上がってゆくばかりになった。
さて、ソウル五輪が終わり、何やら気が抜けたような日常が再開されて間もないある日、鈴木さんが夕方、寮の炊事場でこれから炊く米をといでいたところ、腰の辺りを指先で軽く突かれた。
反射的に振り返ると、鼻先を馥郁とした高貴な香りに包まれた。
ぬくもりを感じさせる甘さの奥にお香のような凛とした渋みがあり、そのくせ、どこか子どもの頃に夏になると母にパフではたかれたシッカロールに似たところもあって、郷愁を感じさせる。なんともいえず佳い香り。
この匂いのせいで、怖がるタイミングを逸してしまったようだった。
指で突かれたと感じたのに誰もいない。これは奇妙だ。誰かの残り香……と、当然、考えた。でも、視線をどちらへ走らせても、どう目を凝らしても、周囲には人の気配すらなかった。
やがて鈴木さんはあきらめて炊飯の準備を再開した。
すると間もなく、先刻の芳香が背後からふんわりと彼を押し包んだ。そして今度は左肩を手で軽く叩かれた。
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