64年東京五輪に出場したパラアスリート・近藤秀夫が激白! “驚きの実話”と、寝たきり状態からの社会復帰!
〈「えっ、障害者にスポーツをやらせる? とんでもありません。むちゃな話だ。それでなくても体が不自由な人たちに、スポーツをやらせて体の調子をくるわせたら、だれが責任をとるんです?」
「そうですとも。中村さんは医者のくせに、障害者をおおぜいの人のまえにひきだして、見世物にしようとしているんだ!」
「体の不自由な人がスポーツをやるなんて、もともとまちがっています。いままでじっと家の中にひきこもっていた者が、いきなりスポーツをやったら、たいへんなことになる」〉(きりぶち輝『すすめ、太陽をあびて』PHP研究所)
スポーツを治療に生かそうとした中村のもとには、同僚の医師や患者の家族からこのような批判が殺到したという。今では笑い話のように聞こえてしまうが、障害者が施設で一生を終えることが当たり前とされていた時代に、人々が中村の考えをすんなりと受け入れることは難しかっただろう。だが、障害者の中には車いすバスケをはじめ、競技に関心を示す人が多かった。彼らにとっては、スポーツは社会復帰という光明に向かって垂らされた蜘蛛の糸だったのだろう。中村の尽力もあって、64年東京パラリンピックは開催の運びとなった。
別府の施設を出て、代々木の選手村へ向かうまでの道中を、近藤は今も克明に覚えている。
「障害者にとって、抱えられるっていうのは嫌なものなんですよ。外国の人は絶対に嫌がります。だけど外の世界を見たかったから、別府から空港に移動して、飛行機へは抱えてもらって乗り込みました。羽田空港からはリフト付のバスがあって、車いすのまま乗れた。あれが国産のリフト付バス第1号でした。それが何台も連なって首都高を走るのを、パトカーがほかの車を止めて選手村まで先導してくれました。すごいな東京は! と思ったもんです」
選手村に入った近藤たちは、その施設の充実ぶりに感嘆の声を上げた。選手村は、“こうすれば障害者が社会に出られる”というモデルケースがパッケージとなって提示されていたと語る。だが、当時の新聞を見ると、それがいかにレアであったかがわかる。
〈東京・代々木のオリンピック選手村は五日閉村、パラリンピック(国際身体障害者スポーツ大会)選手村に引き継がれた。(中略)このため朝はやくから、車いすの人たちが住めるようバタバタと改造工事がはじまった。食堂や宿舎の入口の階段にスロープ(階段を車でも上がれるようにする金属製の坂)をかけ、浴室のドアははずされた〉(昭和39年11月5日付・朝日新聞夕刊)
しかも、この記事は運動面ではなく社会面に掲載されている。以上のことからも、社会的に障害者へのサポートが十分でなかったこと、そしてパラリンピックに代表される障害者スポーツが「スポーツ」として認識されていなかったことがうかがえる。
これは大会が始まってからも、あまり変わらなかった。競技の模様は相変わらず社会面で報じられた上、開会式の模様を報じる記事も〈秋晴れ、明るい選手の顔〉(同8日付)〈明るい外国選手 息をつめる観客よそに〉(同12日付)といった見出しが散見し、競技そのものよりも“障害者が明るくスポーツをしている”という物珍しさばかりが報道されている。外国人選手は選手村でも酒を飲みながら、ジャズバンドの演奏をバックに異国間交流を楽しんだ。一方で、日本の選手は少し様子が違っていた。車いすバスケで出場した須崎勝己は以下のように語っている。
〈勇気もないし、選手の集会所があったんですけど、そこに行く日本選手は誰もおらんかったですよ。自分もパラに行くまでは病院でずっと寝てる生活だったので、1日中車いすに乗っていると褥瘡(床ずれ)が気になってしまって、それどころじゃなかったように思います。(中略)イギリスに中村先生と一緒に行った人が、「向こうの車椅子は車輪がハの字になっていた。作り方が雑で、日本のようにピシっと(まっすぐに)なってないんだ」って言うんですよ(笑)。そんな車椅子なんて見たことなかったので、そう思ったんでしょうね。そう考えると、東京パラの前に海外ではもうスポーツ用の車椅子があったってことですよね〉(平成28年9月6日付・webスポルティーバ)
国籍を問わず、選手村にはのんびりした雰囲気が漂っていたようだが、近藤は多忙を極めていた。
「朝起きたら、係の人が“中村先生から聞いてるよな?”って言って、私を競技場まで連れていくんです。どういうことかというと、中村先生は国や周りを説得するために、あんまり動けない人もパラリンピックの選手として登録しちゃってたんですね。そうすると、そういう人は当日になって風邪ひいただの、具合が悪いだの言って、部屋から出てこなかった。中村先生はそれも見抜いてたんです。私みたいに若くて動ける人間に“やるのは君らだ、頼むぞ!”って言ってたのは、つまりそういうことだったんですよ。もちろんスタッフから“中村先生から聞いているだろ?”って言われたら、オヤジの顔は潰せない。結局、全部で6つの競技に出場しました。しかもオヤジは国から補助金をもらってアメリカ製の高い車いすを用意していたんですが、重くて誰も使いたがらなかった。だから私に“頼むからこれで競技に出てくれ”と言われて、出ましたよ。高さもあるし、サイズも大きいからガバガバで使いにくかったですけど、先生のためにもそれで出場しました。だからね、オヤジの顔を潰さないことに大変で、成績とか何に出たとか、あんまり覚えていないんですよ」
バスケットボールではアメリカの選手が点を取れない日本の選手にパスを出してくれたり、競技自体もフレンドリーな雰囲気に終始していたようだが、車いす以外に中村医師が用意していたものがあった。
「収尿器というものがあります。今も着けているのですが、私たちのように脊髄を損傷するとオシッコが思い通りできませんから、バスケットのように激しい運動をすると漏れてしまいます。その頃は大人用のオムツもありませんでした。中村先生がアメリカ製の収尿器を10個用意してくれました。それもパラリンピックに出発する3日前だった気がします。それを着けるとね、尿を漏らさないで競技ができるんです。こんないいものはない! と思いましたね。64年パラリンピックでは、“こうすれば障害者も社会に出られる”というのが全部提示されていました」
パラリンピック終了後、中村医師は地元大分県に「太陽の家」と呼ばれる障害者のための職業訓練施設を設けて、生涯をかけて障害者の社会復帰を支援し続けた。そして近藤も、パラリンピックを契機に社会復帰を果たす。翌65年には日本タッパーウェアの社員として日本初の車いすフルマラソン、車いすバスケに参加。その後車いすをオーダーメードで製作する会社を仲間と立ち上げた後、74年には日本初の車いすケースワーカーとして東京都町田市の職員となり、多くのメディアに取り上げられた。だが、それだけの活動を経た上で、近藤には東京パラリンピックの大きな“反省点”があるという。
「大会中、私たちを乗せてくれたリフト付バス、あのバスは、あれからどうなったか知ってます? 結局全国の国立障害者施設に送られて、施設の人を乗せて山や湖などに行くのに使われて、そのまま静かに施設へ帰るだけなんです。折角パラリンピックのために作ったのに、それから社会と触れることはなかった。町田市に“日本初のリフト付バス”として展示されているバスがあるんですが、本当の第1号は64年のバス。だけど、パラリンピックが終わったら、バスにはネジ1本予算がつかない。結局修理もできずにそのまま朽ち果てていったんです。1台のバスでも、社会に触れないとダメなんです。パラリンピックの後も、障害者が社会の目に触れないのと同時に、車でさえも社会の目に触れないで忘れ去られていった。障害者にとって1番のバリアは家族でした。みんな障害者の身内を人目につかないように家から出さなかった。そのままではあのリフト付バスと一緒です。私は“障害者が街に出る”、社会の目に触れるということが大事だと思っています」
もしも64年パラリンピック終了後、速やかに東京の街に選手村と同様の改装工事を進めていれば、今頃日本はどうなっていたのだろうか? かつて日本に障害者が社会に復帰する道筋を示してくれた欧米が目を剥くほどの、モデルケースにさえ成り得たかもしれない。残念ながら、今も東京は、日本は、そうとは言い難い。だが2020年に、東京パラリンピックはもう一度訪れる。挽回の機会は、まだ残されているのではないだろうか。
64年東京パラリンピックは、間違いなく革命的な出来事であった。だが、その“遺産”を十分に生かせただろうか? 東京五輪に出場した選手の多くが、五輪自体には今も特別な思い入れを持ちながら、その成果には疑問符を抱き続けている。先月号で取材した飛込の馬淵かの子に至っては、“東京五輪は失敗だった”とまで断言していた。
20年東京五輪が、64年をモデルケースとして開催されようとしていることは間違いない。だが、そもそも64年東京五輪は“成功”だったのだろうか? 仮に64年東京五輪が“失敗”であったと省みた場合、20年を迎える我々の振る舞いを、より謙虚にさせてくれるのではないだろうか。
(文/カルロス矢吹)(写真/吉野 歩)
●インタビュイープロフィール
こんどう・ひでお
[車いすバスケ・車いすアーチェリーほか多数]
1935年3月28日生まれ。51年、炭鉱事故で脊髄骨折、以降車いす生活となる。64年、東京パラリンピックに日本選手として参加。65年、日本初の車いすフルマラソン、車いすバスケットボールに参加。74年、東京都町田市の職員として採用される。81年、国際障害者年日本推進協議会結成に参加。2007年より高知県安芸市に移住。11年にNPO法人障害者自立生活センター「土佐の太平洋高気圧」を設立し、現在も副理事長を務めている。
●著者プロフィール
カルロス矢吹(かるろす・やぶき)
1985年宮崎県生まれ。作家、(株)フードコマ代表。日本ボクシングコミッション試合役員として山中慎介や井上尚弥ら、日本人世界チャンピオンのタイトルマッチを数多く担当。著書は『北朝鮮ポップスの世界』(花伝社)など多数。
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2024.10.02 20:00心霊64年東京五輪に出場したパラアスリート・近藤秀夫が激白! “驚きの実話”と、寝たきり状態からの社会復帰!のページです。東京五輪、東京オリンピック、パラリンピック、カルロス矢吹、アフター1964東京オリンピックなどの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで