「三島由紀夫はなぜ割腹自殺したのか?」昭和最大のミステリーに迫った映画監督がたどり着いた真実とは!? 関係者たちの衝撃暴露
全共闘とは、新左翼運動の一形態である。日本共産党が議会を通じた社会変革を目指しているの対して、暴力革命を目指し、実力闘争を行うのが新左翼。中核、革マル、ブント、解放、第4インターなどの共産主義セクトだ。討論で三島から「大掃除の手伝いのような格好」と嘲笑された、ヘルメットを被ってタオルで口を覆うというスタイルは、1967年10月8日の羽田闘争で登場した。
この日、時の首相、佐藤栄作がベトナム、アメリカ訪問をするために、羽田空港から立とうとしていた。900名ほどの角材を持った新左翼の集団が、羽田に向かった。ジュラルミンの盾を並べた機動隊の阻止線は突破されて大混乱となった。ベトナム戦争で使われるジェット燃料を積んだ貨車が新宿を通ると分かれば、機動隊の阻止線を突破し新宿駅を占拠、破壊して、首都圏の交通を大混乱に陥れた。それが1968年10月21日の新宿騒乱である。
映画の冒頭では、当時の闘争の映像が流れる。
豊島監督「討論会の映像もTBSが撮影して保管していたものですけど、当時の闘争の映像もTBSに山ほどあったわけです。三島は討論の冒頭で『先日、4月28日に私はほうぼう見て回ったのでありますが、あの日の午前中、諸君の、いわゆる体制側の人とちょっと会っておりました』と言っているんだけど、4月28日がなんなのかは話の中で出てこないんです。討論の半月前ほどのことで、言わなくても全共闘の人たちには分かったんでしょう。調べると沖縄反戦デー闘争なんです。探すと、その映像もあるわけです。当時の映像を見るだけでも価値があるので、街場の会社が作るんじゃなくて、TBSの映画事業部が作るということは、そういう意味では価値がありました」
1968年頃より始まったのが全共闘運動である。東大では医学部のインターン問題、日大では使途不明金問題など個別の問題が発端であったが、「大学解体」「自己否定」というスローガンとともに、全国の大学、高校、一部では中学にまで広がった。全共闘は個々の学生の決意と責任と主体性を重視するもので、入るのも自由、出るのも自由。ヒエラルキーのあるセクトとは違った。だが自由であるだけに、セクトの人間が全共闘のメンバーになることもでき、影響を与えていたことは否定できない。ヘルメットと角材というスタイルを踏襲したことなどに、顕著にそれは現れている。
この頃からセクトが角材に加えて使うようになったのが、火焔瓶。全共闘もそれを取り入れた。ガソリンなどが詰められた火焔瓶は割れれば炎上し、それによって死者が出ることもある危険な武器だ。1968年より東大では、安田講堂を始め、いくつもの建物が全共闘によってバリケード封鎖されていた。それを彼らは「解放区」と呼んだ。1969年1月18日に、警視庁機動隊がバリケード撤去に取りかかると、学生たちは火焔瓶、ガレキなどを落として抵抗。最後に残った安田講堂のバリケードが解除されたのは翌日の夕暮れだった。
そんな1969年5月13日、1000人を超える学生が待つ東大駒場キャンパス900番教室に、三島由紀夫は乗り込んでいった。そこで行われた討論の映像を元に映画は作られている。
関連記事
人気連載
“包帯だらけで笑いながら走り回るピエロ”を目撃した結果…【うえまつそうの連載:島流し奇譚】
現役の体育教師にしてありがながら、ベーシスト、そして怪談師の一面もあわせもつ、う...
2024.10.02 20:00心霊「三島由紀夫はなぜ割腹自殺したのか?」昭和最大のミステリーに迫った映画監督がたどり着いた真実とは!? 関係者たちの衝撃暴露のページです。東大、三島由紀夫、自殺、三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実、豊島圭介、割腹自殺などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで