『デーモン・コア』日本へ投下予定だった第3の原爆の“悪魔の核心”とは

 第二次世界大戦末期、広島、長崎に続く3発目の原子爆弾の投下が計画されていた。その原爆のコアこそが後に2人の物理学者の命を奪った“悪魔の核心”、「デーモン・コア」である――。

■実験中に致死量の放射線に被曝

 英米加の科学者を総動員して進められたアメリカの核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」で原子爆弾が製造され、1945年7月16日、世界で初めて原爆実験が実施された。

 ご存知のようにその後に広島、長崎へと2発の原子爆弾が投下されて日本は降伏したのだが、もし降伏しなかった場合、3発目の原爆投下が予定されていた。

 その3発目の原爆の核分裂性コアとして製造されたプルトニウムの塊はその後に「デーモン・コア(悪魔の核心)」と呼ばれる禍々しい危険物となって2人の物理学者の命を奪ったのだ。

「IFLScienec」の記事より

 デーモン・コアは重さ6.2キロ(13.7ポンド)、直径8.9センチ(3.5インチ)というかなり大きな放射性プルトニウムの塊で、原爆の核分裂性核となるように設計されていた。1945年から1946年にかけてデーモンコアの核実験が行われており、もし降伏していなければ日本に向けた3発目の原子爆弾に組み込まれていた可能性が高かったのだ。

 爆弾の核として設計されたデーモンコアの炉心が実際に臨界点に近づいていることを確認するための実験がロスアラモス研究所で行われていたのだが、1945年と1946年に2度の臨界事故を起こし、それぞれの実験実施者であった2人の物理学者が命を落とした。

 危険性はじゅうぶんに認識されていたのだが、一部の研究者らはコアを超臨界状態の実験材料として使用し、中性子反射体を使用して炉心を限界まで押し上げる試みに熱をあげた。

 1945年、物理学者のハリー・ダリアンは自分の研究室で一人でデーモン・コアの中性子反射実験を行っていたが、誤って反射性炭化タングステンのレンガをコア上に落としてしまい、コアが超臨界状態になり致命的な中性子線のバーストが放出された。

 ダリアンは急いでブロックをプルトニウム塊の上から離したものの、致死量の放射線に被曝し、急性放射線障害のため3週間後に死亡したのである。

 この事故を受けてマンハッタン計画における核研究に関する法規制が強化されたが、それでもまだ十分に厳格なものではなかった。

画像は「Wikipedia」より

■「ドラゴンの尻尾をくすぐる」ようなきわめて危険な実験

 カナダ出身の物理学者、ルイス・スローティンは、前任者であり同僚の悲惨な死に動揺することなく、核が超臨界にどれだけ近づいているかを解明するダリアンの研究を継承した。

 注意深く内部の活動を測定しながら、中性子反射体をゆっくりと炉心の上に降ろすという手順がとられ、リフレクターとデーモンコアの間の接触は悲惨な結果を招くため、両者の間の分離を維持するためにスペーサーが使用された。

 才能ある物理学者で核の命知らずであるルイス・スローティンは、時間と労力を少なくするために、リスクが大きい独自の方法を考案した。

 コアをリフレクターから離していたスペーサーを取り除き、代わりに分離を維持するためにマイナスドライバーを挟み込み、手動でドライバーを操作しながら放射能の測定を行ったのである。

ハリー・ダリアン(メイン左)、ルイス・スローティン(メイン右) 画像は「Wikipedia」より

 有名な物理学者、リチャード・ファインマンが彼の大胆過ぎる実験を非難し、「(獰猛な)ドラゴンの尻尾をくすぐる」ようなきわめて危険なものであると当時警告していた。

 著名な専門家の警告にもかかわらず、スローティンはこの実験を何度も繰り返した挙句、遂にその日はやって来てしまった。

 1946年5月21日、スローティンはロスアラモス科学研究所で数人の前で実験のデモンストレーションしていたとき、彼のドライバーがほんのわずかに滑っただけで中性子反射体がコアを取り囲み、すぐさまコアが超臨界状態に達してまったのだ。

 コアから放出された青白い光のフラッシュに続き、強烈な熱がスローティンと彼の同僚を襲った。スローティンはすぐにリフレクターをコアから弾き飛ばして反応を止めたが、致命的なダメージを受けて9日後に死亡したのである。

 事故の際、彼のすぐ隣にいたアルビン・グレイブスも大量の放射線を浴びたのだが一命をとりとめ事故後も20年間生きた。

 スローティンの素早い対応と彼が放射線の大部分を一身に引き受けたため、部屋にいたほかの人員は被害を免れ、生き残ってこの悲惨な臨界事故の詳細を語り継ぐことができたのだ。

 事故の後、このコアは最終的にデーモン・コアとしての異名を獲得し、その後に溶かされてほかの核分裂性コアへとリサイクルされることになった。

 きわめて危険な実験において“人柱”となってしまった2人の物理学者は、その後の米ソ冷戦で核兵器が溢れる軍拡競争を天国からどう見ていたのだろうか。原子爆弾の開発という急務の課題を力ずくで成し遂げたマンハッタン計画だけに一部で無謀な側面があったことは否定できないのだろう。

参考:「IFLScienec」ほか

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文=仲田しんじ

場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。
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ツイッター @nakata66shinji

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