“四本足の少女”見世物にされながらも愛と家族を手にし、幸せに生きた女性の実話

四本足で生まれた女性はどのような人生を送ったのか――。一時は“見世物”になったものの、経済的に恵まれたことで7人の子供を出産するおおむね幸せな生活を送っていた。
■四本足で生まれた女性の幸せな人生
1868年5月12日、テネシー州リンカーン郡の貧しい農家に生まれたマートル・コービンの姿は、両親や医師たちを驚かせた。へそから上は同年代の子供たちと何ら変わらなかったが、下半身には骨盤が2つあるだけでなく、脚も4本あったのだ。
これは二殿体(Dipygus)と呼ばれる症状で、体軸が分裂して下半身が二体分になる先天性疾患である。この奇妙な身体的特徴から、後に彼女は「テキサス出身の四本足の少女」と呼ばれることになった。
マートルの父親、負傷した元兵士のウィリアム・H・コービンは、ゆりかごの中に掘り出すべき金鉱があることにすぐに気づいた。
ウィリアムは、娘のマートルが生後わずか1か月のときに、近所の人たちにマートルの“秘密”を見せるごとに10セントを請求することから始めた。
現代社会の視点から見れば、親たちのこの行為に眉をひそめるかもしれないが、ウィリアムと妻のナンシーは、このお金はマートルの教育費と、彼女が成功するためのチャンスを与えるために使われると主張した。そして実際、マートルは素晴らしい人生を送ることになるのだ。
マートルは外側の二本の足で歩き、内側にある短く細い二本の脚の小さな足には三本の指しかなかったが、それでも動かすことはできた。
成長するにつれ彼女は両方の子宮から月経を起こしていたと考えられており、どちら側の子宮でも妊娠できた。
マートルは14歳になる頃には、興行師のP.T.バーナムに買われ、いわゆる“見世物小屋”のショー出演者となった。
ロビン・スターリング著『Tales of Old Blount County』の説明では、マートルは特に人気のある演者で週給250ドルを稼いでいたという。
しかし当然のことながら、興行生活は彼女にとって大きな負担であり、どれだけ稼いでいたとしても、人々に自分の身体をじろじろ見られるのはストレスでないはずはなかった。そしてマートルの人生は、医学生のジェームズ・C・ビックネルとの恋によって変化が訪れる。

二人は1886年6月12日、ブラント郡で結婚しマートルは演者を辞めて結婚生活に入った。
翌年、マートルは“左側”で妊娠していることが判明し、不幸なことに状態は複雑で、最終的には母体を救うために中絶することとなった。
マートルはすぐに立ち直り、ジェームズとの間に合計で7人の子どもを授かった。しかし悲しいことに、乳児期を生き延びたのは兄弟姉妹のうち4人であった。
マートルはしばらくの間、テキサス州ジョンソン郡で静かな家庭生活を送っていたが、4人の子供たちが巣立つと再び興行の世界に戻り、ギャラはアップして週給450ドルを稼いだ。
その後しばらくしてマートルは表舞台から退き、穏やかな二度目の引退生活を楽しんだといわれている。彼女は1928年5月6日、内側の脚に皮膚感染症を患い、59歳で亡くなった。
彼女はブラント郡出身の礼儀正しい少女で、たまたま四本足で生まれたというだけであった。マートルは19世紀においてさえ、重度の先天性疾患を持つ女性でもキャリアを築き、妻として、そして母親として成功できることを証明した不屈の偉人であった。
参考:「Mirror」ほか
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2024.10.02 20:00心霊“四本足の少女”見世物にされながらも愛と家族を手にし、幸せに生きた女性の実話のページです。フリークス、先天性疾患、見世物、興行などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで