小人、結合双生児、生きるミイラ… “奇形・フリークス”を愛した英ビクトリア女王の真実

 英国のビクトリア女王は、熱烈なフリークスファンだった。歴史家のジョン・ウルフ博士によると、ビクトリア女王のそれは特に秘密ではなかった。それどころか、イギリスでフリークショーを広めた人物こそ、他ならぬビクトリア女王だったというのだ――。

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ビクトリア女王(1819-1901) 画像は「Wikipedia」より

■ビクトリア女王が愛したフリークス

 ビクトリア女王は厳しい顔をした君主として歴史に残っているが、実際はアウトサイダーを好む、愉快で愛情のある女王として知られていたらしい。

 女王はドイツの血を引くが、抑圧的な英国のケンジントン宮殿で育てられ、また女王の身長はわずか150センチで、その姿そのままに「小さな女王」と呼ばれていた。ビクトリア女王は、自分が会ったフリークスのパフォーマーについて書き残している。それはとても興味深い読み物だ。

●親指トム

「親指トム」ことチャールズ・ストラットンが、米コネチカット州で「発見」され、ロンドンのステージでデビューしたのは、今から170年以上前のことだ。その時、「親指トム」は、わずか4歳であったが、興行主の“グレイテスト・ショーマン”ことP・T・バーナムは11歳として紹介していた。

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サーカス王P・T・バーナムと「親指トム」のチャールズ・ストラットン(1850年) 「The Vintage News」の記事より

 1844年、6歳になった身長63センチの「親指トム」が、バッキンガム宮殿にP・T・バーナムに伴われビクトリア女王に会いに来たのが、女王の「サーカスフリークス愛好の始まりだったらしい。

「親指トム」は、ビクトリア女王、アルバート皇太子を含む王室の面々の前で芸と寸劇を披露し、女王は魅了された。ビクトリア女王はその日、他のサーカスの「フリークス」も連れて、再び宮殿に来るように「親指トム」を招待した。

 ビクトリア女王は、フリークスパフォーマーたちの最大のパトロンであり、彼らを宮殿に招き続けた。イギリスのバッキンガム宮殿とウィンザー城には、小人、巨人、アステカ人、アースマン、シャムの双子、ズールー族などのフリークスが次々と現われた。

 フリークショーのパフォーマーは、現在のセレブリティのような地位にあったらしい。その中でも、女王と初めに会った「親指トム」は、国際的著名人の一人として注目を浴びた。

 当時、サーカスのフリークスの私生活は、一般の人々にとって非常に興味深いものであった。「親指トム」が同じく小人の女性ラヴィニア・ウォーレンと結婚した時、世間は彼らの生活に大いなる好奇心を抱いた。

 商売上手の興業主P・T・バーナムは、2人に公開結婚式を挙げさせ、夫婦の子と偽って他所から赤ちゃんを借りてきたのだ。

 その後、「親指トム」は大金を稼ぎ、世界を旅し、ヨットも所有した。もともと、彼は米コネチカット州ブリッジポートの貧しい家庭に育ったが、彼のおかげで兄弟たちを私立の学校に送ることもできたのだった。

●人気を博した「アステカ人」  

「アステカ人」ことマキシモとバルトラは小頭症で生まれた兄妹で、共に知的障害があり、エルサルバドルの小さな村から騙されて連れて来られた。当時の人々はマヤ文明にロマンティックな関心を持っており、P・T・バーナムは彼らを「アステカ人」としてでっち上げ、見世物に出していた。

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「アステカ人」ことマキシモとバルトラ 「news.com.au」の記事より

●シャム双生児のチャンとエン(1830年)

 シャム双生児として人気のあった中国人のチャンとエンは、フリークショーで稼ぎ、100万円(現在の価値だと2500万円くらい)を貯めた。その後にフリークショーから引退。

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シャム双生児のチャンとエン 「news.com.au」の記事より

 1839年には、米ノースカロライナ州のウィルクス郡に移り住み、店を開き、家と土地を購入した。彼らはその地域で、最も裕福な男性となり、それぞれ妻をめとり、子どももつくった。

●「生きる骸骨」のアイザック・W・スプラーグ

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「人間骸骨」のスプラーグ(1867年) 画像は「Wikipedia」より

 スプラーグが12歳の時、突如、体重の減少が始まった。後に彼は、進行性の筋萎縮症を患っていることが判明する。彼が20代初めに両親が相次いで亡くなり、彼は普通の仕事をする体力がないことから、自分から申し出てP・T・バーナムのサーカスに入団した。

●ジョイス・ヘス「161歳のジョージ・ワシントンの元乳母」

「生きる161歳のミイラ」として、フリークショーに出ていたジョイス・ヘスは、実際は身体が麻痺した老いた黒人奴隷だった。ヘスはP・T・バーナムによって買い取られ、旅から旅への生活を強いられていた。ヘスが亡くなった時、話題作りのうまいP・T・バーナムは、「公開検死」を行った。医者はヘスが実際は81歳だと証言した。

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ジョイス・ヘス 画像は「Wikipedia」より

■フリークショーの明暗

 1840年代以前、フリークショーは低俗なものと見られていたおり、旅回りの見世物小屋として認知されていた。しかしその後、フリークショーはあらゆる年齢、階級、性別、背景の人々が楽しめる尊敬に値する文化的・芸術的な娯楽として扱われるようになったといわれている。

 ビクトリア女王によって、フリークショーには、ヨーロッパ各地の宮殿の扉も開かれた。1845年、女王のお気に入りの「親指トム」はヨーロッパツアーを敢行し、フランスのルイ・フィリップ王、ベルギーのレオポルド王とルイーズマリー王妃、そしてスペインの女王に謁見した。十数年後、彼は米大統領のリンカーンとも会った。

 しかし全てのフリークスたちが上流階級に入り込み、光輝く人生を送ったわけではない。悲惨な搾取の例は数多くあった。「161歳のジョージ・ワシントンの元乳母」ことジョイス・ヘスや、「アステカ人」ことマキシモとバルトラはその悲しい例だろう。

 純粋芸術に囲まれた恵まれた人生を送っていたはずのビクトリア女王が、それほど強くフリークスたちに惹きつけられた理由は、一体何だったのだろうか。

 しかし、ビクトリア朝の「フリークスカルチャー」は、女王というパトロン無しには、花開かなかったことは確かだろう。

参考:「news.com.au」、「The Vintage News」、ほか

 

※当記事は2019年の記事を再編集して掲載しています。

文=三橋ココ

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