■どうしようもなく撮り続けた写真だから面白い
――ダクト撮影を初めてかなりの年月が経って、ダクトを撮ることへの気持ちは変わってくるものですか?
木原 今は別の仕事もしていて、ダクト清掃は金銭面でどうしようもなくなると行くくらいなんです。まあ、結構行くんですけれど。今でもカメラを持って行っているけれど、前とどれだけ同じ感じで撮れているのかちょっとわからない。実生活はそんなに変わっていないけれど、写真を発表したことで注目されるようになったり写真が本になったりするなかで「もうちょっとこうしてやろう」と思ったり、そういう卑しさみたいなものが出てきたりするのかなって。そういう気持ちが嘘っていうわけじゃないけれど、当初はそういう思いとは全く関係なしに撮っていたなって思いますよね。今はそのくらい俯瞰して自分の写真を観ちゃう。時間が経つと感覚も変わるし。
――観る人へのサービス精神みたいな、余計な思いが出てくることで、ダクトを撮ることそのものへの純粋さが薄まってきたと?
木原 単純に、観てくれた人からの評価が聞こえてくると「これを撮ったらどうだ」とか、考えたくなくても少しぐらいは考えちゃいますよ。こういう写真が面白いって言われたら、いつもよりちょっと多めに撮ってみようかなとか、今までと違ってくるかもしれないって思って。でも、今でも進行中だから、自分でもどうなるかわからないです。「お前大丈夫か?」って言われるくらい成り行きで生きているんで。
――成り行きから生まれてきた写真って面白いですよね。
木原 緻密に計算されて組み立てられた写真って、よほど凄くないと面白いって思わないでしょう。「うわ、この人普通じゃないな」っていうくらい綿密に考えて撮っている人もいるかもしれないけれど、そこそこの人が作為を持って撮ったものってあまり面白くないと思うんですよ。「作為=悪」というわけではないですけれど。
――ダクト内部の写真だけで構成された写真集や写真展っておそらく『DUST FOCUS』が世界初だと思うんです。写真家として、ダクトという被写体、テーマに出会ってしまった、という感覚はありますか? 何かに引き合わせられたような感覚というか。
木原 ないですよ。なんとなく性に合っていたというのはあるのかもしれないですけれど、ダクト清掃の仕事を続けていたのは借金があったのが大きいんです。借金があったり自分がだらしなくて抜け出せなかったからこれだけ写真が溜まったわけで、仮にスポンサーがいてサポートしてくれたなら、こんなにダクトの写真に執着していたかどうか。逆に言うと、どうしようもないなかから生まれてきたものだから、ある意味本物だと言えるのかもしれないですけれど。