【芸人・九月の新連載】又吉直樹『劇場』を徹底批評!”婉曲エロス”の極みを読み解く…乱視で読む日本文学
●口に出るのは関西弁、自意識は標準語
「おれも同じの買ったで。なんで買う時に聞かへんの」
決して安いものではない。
「えっ?永くんも同じの買ったの?」
沙希は嬉しそうに笑みを浮かべている。
「もったいないやん」
思わず言葉が尖った。
「でも、その瞬間同じこと考えてたんだね。やったー!」
沙希の表情には光があり、心の底から幸福そうな声をあげた。馬鹿みたいだなと思いもするが、それをはね返すだけの輝きが彼女にはあった。実際に沙希の無邪気さに救われることは多かったが、少しでも別のことで心に不安があると無性に神経が昂ることがあった。その感覚が腹の底に沈殿すると、自然と表情が強張り、身体に力が入る。そうなるたびに小さなことに拘泥する自分自身のことを、せこくて醜い生きもののように感じてしまう。それでも気持ちは収まらず、執拗に先を責めたくなるのだった。
(『劇場』位置No.1052)
さて、会話の話から派生して、会話文と地の文の関係についても取り上げてみたいと思います。
『劇場』は主人公・永田の視点で進む物語ですから、地の文はすべて永田が頭の中で思ったこと、確認したこと、気付いたことについての文です。
印象的なことに、永田は会話文では関西弁を用いますが、地の文では標準語を用いています。これは物語を通して徹底されたルールであり、『劇場』が持つ文体面の最大の特徴です。
これは自意識に苛まれる永田の人間性を端的に象徴し、彼の内心と発言に重大な差異があることを強調していると考えられます。
が、それにも増して、「口に出るのは関西弁」「自意識は標準語」という割り振りに面白さを感じました。これって、一般的な人とは逆な感じがしませんか。
世の中には、ちょっと無理をして標準語で話しているけれど、心の中では地元の方言が出てしまう人、の方が絶対に多いはずなんです。本音に近いこと、心の中の出来事にこそ方言が出る、だから油断すると方言が出てしまう。それが一般的ですよね。
永田は逆なんですよ。心の中が標準語なんです。自分を見つめる自意識が標準語、人に向けて発する会話が関西弁。
このスイッチングは、前半においては、会話文に現れる関西弁のユーモアと、地の文に現れる標準語のロートーンな自意識を対比し、双方を強調しています。会話のきらびやかなユーモアはより楽しげに見えますし、どんよりとした地の文は全くふさぎがちに見えるわけです。
一方、永田の自意識がとうとう表出する後半においては、会話文に現れる関西弁はとても感情的で荒っぽくなり、前半とそう変わらずロートーンな地の文との対比は、やはり鮮やかです。もはや制御不能になってしまった激情に振り回され、次々にとんでもない言葉を口にしてしまう永田。そんな自分を定点からごく批判的に見つめ続ける自意識の冷やかさ。
直感するに、この言語をスイッチする演出上のアプローチは、又吉さんのお笑い芸人的な経験値に支えられているものではないかと思うのです。
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