【芸人・九月の新連載】又吉直樹『劇場』を徹底批評!”婉曲エロス”の極みを読み解く…乱視で読む日本文学
●セックスがない恋愛小説
『劇場』は恋愛小説と銘打たれています。実際に、描写の多くは永田と沙希の恋愛に関わるシーンです。しかし、セックスシーンは一つも登場しません。そもそも作中で描かれる永田と沙希の身体的接触はごく僅か、手を繋ぐ程度です。
もちろん、書いていないところで二人はセックスしていたかもしれません。特殊なプレイに耽っていたかもしれません。もちろん実際に行為をしていないのかもしれません。事実は分かりません。
ただ少なくとも、本作の視点、語り手である永田は、沙希とのセックスを回想していません。この理由について、又吉さん本人は、永田にとってセックスが重要ではなかったことを挙げていました。
しかしよく考えてみれば、セックスを描かないということは、成人が登場する恋愛小説においては思い切った捨象です。
プラトニックな愛を描きたい。精神性こそが愛なんだ。セックスを書かないことにも、様々な理由と説明があり得るでしょう。しかしいずれにせよ、作品の強度を考えるとき、セックスの欠落は一つのリスクになってしまいます。
なにせ、セックスはそれだけ強烈な行為なのです。刹那的で耽美的で、しかしみっともなさがあり、肉の生々しさがあり、ある種の高潔さがあり、一方で汚れを含み、それらが一回性のきらめきを放つ。
セックスには、恋愛や人間関係の多くを代弁するだけの強度があります。ゴムさえつけてしまえば情報量がまったくゼロの、してもしなくても世界に変化の起こらない行為であるくせに、とてつもなく雄弁に、恋愛における存在感を主張するのです。ですから恋愛を扱う際にセックスを描写しないことは、恋愛そのものの強度を損なうことになりかねません。
これはきっと小説に限った話ではありません。僕はセックスの匂いがしないラブソングや、セックスの雰囲気が見えない恋愛漫画にも、どこか物足りなさを感じます。作者は本当のことを言い当てる気などないのだ、人間の恋愛について語ろうとは思っていないのだ、とがっかりするのです。
そして、『劇場』です。『劇場』は、セックスを描かずに、同時に恋愛小説としての強度を獲得することに、見事な成功を収めています。
セックスが描かれないからといって、永田と沙希の恋愛に食い足りなさを感じることは全くありませんでした。それどころか、二人の関係について、色気がある、エロいとすら感じました。
何せ、会話文がたまらなくよいのです。
「外国人観光客が裾短めの浴衣を着てるとか、棒高跳びの選手がやや面長とか、 酔うてる女が自分のヒールを担ぐようにして裸足で真夜中の道路を歩いてるとか、これが平凡や」
「えー、わかんない。棒高跳びの選手がやや面長しかわかんない」
「なんで、それはわかってん」
(『劇場』位置No.1498)
思うに、『劇場』においては、会話文がセックスの代わりを果たしたのです。
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