【芸人・九月の新連載】又吉直樹『劇場』を徹底批評!”婉曲エロス”の極みを読み解く…乱視で読む日本文学

●会話文がセックスになっていた

「ねえ、空に向かってガム吐いたことある?」
 勝ち誇った顔で僕を見上げる沙希の髪からは良い匂いがしていた。
「ないよ」
「すごい怖いよ。上から落ちてくるからね」
 沙希は嬉しそうに言った。
「あたりまえやん。でも六年生になるまでガムは全部のみこんでた」
「だめじゃん」
「ええねん」
(『劇場』位置No.935)

 

「手つないでって言うたら明日も覚えてる?」
「うん?どういうこと?」
「明日、忘れてくれてんねやったら手つなぎたいと思って」
「手をつなぐことを恥ずかしいと思ってる人、永くんだけだよ」
(『劇場』位置No.1648)

『劇場』は会話文の豊かさに彩られた作品です。永田と沙希は、しばしば目にしたものをきっかけに空想を膨らませ、緩やかなルールに則ったユニークな会話を始めます。

 それは日常会話から派生する言葉遊び、二人だけのノリです。どこかコント的でもあり、時に漫才的でもあり、あるいは大喜利的でもあります。又吉さんのお笑い芸人としての経験や視点が存分に発揮されているのでしょう。

 全体として見ると、『劇場』はやや陰鬱な雰囲気なのですが、思わず笑ってしまうシーンは本当に沢山あります。数も種類も豊富で、よくこんなにもアイディアが出るものだと驚きます。ユーモアの物量がとんでもないのです。アイディアを取り出して再構成すると、お笑い芸人の単独公演が幾つも打てるほどの物量です。

 しかし物量にもまして凄まじいのは、永田と沙希の会話が、だからと言ってお笑い的なわけではなく、ネタっぽくなく、そしてそれゆえ恋人同士のみが放てる幸福な色気を漂わせているということです。

 ユーモアがエロいのです。会話がセックスなのです。

「ここは安全なん?」
「ここが一番安全です」
「そうか」
「梨があるところが一番安全です」
「ここか?」
「そうです」
(『劇場』位置No.1642)

 圧倒的なリアリティとナチュラリティゆえに、それはあまりにも何気ない。昨日の夕べ、どこかで誰かがしていたとして、本人はもう忘れていそうな、本当に些細な会話です。

 しかしその何気なさの中に、恋愛関係の二人だけが見ることのできる、関係性における何らかの地平が覗けるのです。

 それって、めちゃくちゃエロいと思いませんか。かなりセックス的だと思いませんか。二人の会話はあくまでも思いつきのノリとして行われます。ですから、そこで発生した会話は極めて刹那的です。

 そしてそれらの会話は、その二人の閉じ切った関係の中でしかあり得ず、世界に何の影響も与えない、ただ純粋な意味だけのやり取りです。その無意味な美しさこそ、セックスの放つ一回性のきらめきと、全く同質のものに見えるのです。

 永田と沙希は、あの何気ない会話に、セックスが語りうる内容を代弁させている。僕にはそう思えるのです。

 だからこそ、『劇場』はセックスの不在をものともしない強度ある恋愛小説となっているのです。

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