自動書記(オートマティスム)とはなにか? 体内麻薬の異常分泌、憑依状態での執筆…アンドレ・ブルトンが体現したこととは?
「『侯爵夫人は5時に外出した。』などと書くことに私はいつまでも拒み続けたい」とブルトンは言っている。
こういった意識から逃れることで本当の自由があり、本当の現実があるのだと、想像力を解放しろ、それが真の生を実現する手段だと、そこに精神の最大の自由が今なお残されていると再認識しなければならないと。ブルトンは文学における構成の意識はそのむかし不幸になったものだから、いずれはその不幸を免れうるだろうという未来に委ねるような種類の考えを持っていた。しかし、社会的疎外を主張しながらも、未来に救済を期待するということは、結果としてその意識の不幸はそれ自身の歴史に結びついてしまうという決定的な矛盾がある。そして無意識下による詩の実践により判明した意識の不幸はそのまま形而上学や歴史と対立するような否定だった。
また、「人間を実現するために」と言ったが、逆説的にはあらゆる二元論に意義を唱えているにしても、結果としては人間体験への持ち前の誠実さ、真摯さや明晰さのおかげで、多くの場合、実は二元論哲学がかつて明るみに出してきたような、一連の真理の再発見へと導かれてしまう。かつてのマニ教やカタリ派、グノーシス派のように神は見ることが出来ないが世界よりも超越していると言うような、つまり実在的な至高神の不可視の設置と、唯名論的な創造神の可視的生命の設置とを、もっと言うならば、地上的諸事物と存在者に対して超越的な価値を立てること、その一方で、その外部(不可視)と内部(可視)の間の媒介(キリスト)を要請しながらもその論理自体を解体しようとすることを、引き裂かれるような想いで自らの存在に問うのだ、 こういった古典の一途の結末、実在の特異性をめぐる問いの周りをブルトンは旋回する。結局は自分は形而上学の敵だなどと称しながらも、ブルトンは固有の道を辿って、形而上学の教えに到達してしまう。
後年になると、ブルトンも自らが言い出した自動書記による失敗には気付いている、何人ものシュルレアリストが発狂して自殺したからだ。恐らく体内麻薬が異常に分泌され狂ってしまったのだ。そして現実感覚がなくなったのだろうと思う。ブルトンはこのことがあってから、シュルレアリストたちに自動書記を辞めるように言っているし、何よりも無意識による詩を肯定するということはそもそも歴史自体に結びつき、その詩の実践により判明した意識の不幸自体がそもそも自らが否定していた理知的に他ならない構成であり、歴史そのものだったのではないかとブルトンは感じたのだろう。
これは何よりも理性の監督下に置くことは結局自由を求める余りに疎み嫌っていたはずの論理や構成と対立するような「無意識という名の意識、無秩序という名の秩序、自由という名の束縛、つまり結局は法則としてのシュルレアリスム」を体現していたのではないだろうか? 結論を言えばブルトンは結局のところ社会的解放への欲望と精神的解放への関心を決して両立させることはできなかった。だが、別の言い方をすれば、テルケルやシチュアシオニストたちへと続く新しい文体を発明したという言い方も出来るし、シュルレアリスムが正しかったも正しくなかったの是非もどうでもいい、問題は左翼的精神状態に益する事実そのものによって、自らが表明していた精神的解放、反抗の姿を証明できるような理想的社会を実現出来る本来の生の芸術も生きかたも実存出来なかったということであり、 自由への実践は社会的範疇においても個人的範疇においても同様に失敗しているのではないかということだ。
読者諸君も自動記述(オートマティスム)を実践してみよう。簡単なことだ、ノートとペンがあれば出来るのだから。自由な想像力に身を任せてみよう。だが、かつてのLSD研究者のように狂って窓から飛び降りるという可能性はあるので、おススメはしないが。未来のティモシー・リアリーはあなたかもしれない。たとえ気が狂って自殺することになったとしても。
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2024.10.02 20:00心霊自動書記(オートマティスム)とはなにか? 体内麻薬の異常分泌、憑依状態での執筆…アンドレ・ブルトンが体現したこととは?のページです。アンドレ・ブルトン、自動書記、オートマティズム、原智広などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで