■阪神大震災と写真
ーー野村さんは神戸出身でしたね。野村さんの写真には、少なからず、阪神大震災が関わっているような気がするんです。
野村 それはありますね。
ーーご実家が被災したのは野村さんがアメリカに行っていた時で、震災をきっかけに翌日に日本に戻って日本を撮ることを決めたと、何かで読んだ記憶があるんです。処女写真集の『DEEP SOUTH』は、母方のルーツのある沖縄を撮った作品集ですが、沖縄を撮り始めたことに、震災をきっかけにもっと自分の足元を見つめようといった思いはあったのでしょうか?
野村 震災の影響もあるかもしれないけれど、沖縄を撮り始めたことについては、東京に出てきたことが大きかったですね。
ーーどういうことでしょう?
野村 ベトナムを撮ったデビュー作で、ある新人賞をもらった年の1997年に東京に出てきたんですよ。その頃の東京には同世代のすごい写真家がたくさんいて、すごい先輩方もたくさんいて。みなさんの姿を見て、写真で表現するってこういうことだ、どこか余所に行って頑張って撮ってくるっていうことでもないんだ、っていうのを目の当たりにしたんですね。
ーーと言うと?
野村 う~ん、当時は表現であるためには自分の足元を撮らなきゃならないって思って。その時、思いつきは2つあったんです。1つは地元の神戸。震災後の神戸を撮るっていう。でも、ちょっと気持ち的にも無理かなって。それで考えた末に、母方のルーツがある沖縄が浮かんだんです。足場というか、自分のアイデンティティをもう一度撮りなおさないと、気になる由縁のない場所にばかり行って絵になるショットを撮っても自分の表現の写真にはならないと当時は思ったんですよ。それで沖縄と決めて、東京に出たのと同時期に通って取り始めました。
ーー震災の直接的な影響はどのあたりに?
野村 一番は、それまで好き勝手に生きていた自分も、今までいた安定していると思っていた居場所も一瞬で危うくなると思ったことですね。この世の中も人の命もとても脆いってことを目の当たりにさせられたんですよ。だったらどうする? 「今を精一杯生きる」とか「好きなことをやる」とか。それなら「好きなことってなんだろう?」って。写真をやることは決めていたから「写真で表現するっていうのはどういうことのか?」とか「写真でやりたいことってなんだろう?」とか考えさせられました。震災がなかったらこんな危うい写真作家にはなっていなかったかもしれない。
ーー覚悟が決まった、ということですか?
野村 世の中は脆いな、怖いな、っていうことを実感したということですね。だって、阪神だけでも関連死も含めて6,000人以上の人が壮絶に死んでるんですよ。2011年の東日本大震災とか、本当に怖かった。怖過ぎて当時はすぐには現地に行く気になんてならなかったから。変な話だけれど、やっぱりこうなるんだって。災害が来たら人って一瞬で死んじゃうんだ、消えちゃうんだって。自分の街が生活が一瞬で消えてしまうっていう感覚がなんとなくわかるから。怖かった。
ーー阪神大震災を知っているからなおさらですよね。
野村 でも、今となっては当時の神戸を撮っておけばよかったと本当に思います。今の私なら意地でも撮っていたかも。もう神戸も見た目はきれいになっちゃってるし、今の二十歳前後の子たちは知らないでしょう? 爪痕も残っていないし、あの当時の感覚も日々の暮らしの中で忘れちゃっていることもあるし。自分も当時の記憶がないんですよ。びっくりし過ぎちゃってたのか必死だったのか。実家の近くで自衛隊の給水車まで水を汲みに行ったりしていたはずなのに、ほとんど記憶がないんです。撮っておけばよかったってすごく思います。