■狩られた動物は食材に見える
ーーこれまでの作品も含めて、野村さんは「血を感じさせる写真家」という印象が強いんです。でも、この写真集のシカやイノシシのほか、猟で殺められた動物の写真は、動物の体、ボディがただそこにある、という感じで淡々としている。なぜこういった写真になったのだと思いますか?
野村 淡々として見えるのは食材だと思って撮っているからだと思います。不思議なんですけれど、私、死んでしまった動物は食材にしか見えないんですよ。狩られたり絞められた時はかわいそうって思うけれど、こと切れた瞬間に「あ、あのロースの部分が欲しい」とかって思っちゃう。
ーー食材! 猟を撮った写真というと、白い雪の上に転がる動物の体と飛び散った赤い鮮血、みたいな、「生死のリアル」を直接的に感じさせるものが頭に浮かぶんです。そういう感覚はありませんか?
野村 あんまりないですね。たぶん女性って血を見慣れてるのでは(笑)。それに、そもそも血そのものを撮っているわけじゃないし。血まみれの獣のイメージを撮って生だ死だって、ものすごく単純な話でしょう。それよりもう1つ先の話。「食材だ、よし、食べよう」って。実際に彼らもほとんどを美味しく食べています。
ーー「もう1つ先の話」というのは、ほかの動物を殺めて食べることで人間は命をつないでいく、その循環の一要素として見ているということでしょうか?
野村 そうです。
■赤い水は人間の魂
ーー「血」というのは、野村さんの写真の重要な一要素だと思うんです。
野村 血というよりも「赤」。「水」と「赤」っていうのはこれまで重要な作品テーマにしてきたことです。たとえば、目の前に水の入ったグラスがあって、グラスが人間のボディだとしたら水は血ですよね。グラスが壊れたらなくなってしまう。このボディと血っていうのがグラスに入った水と同じイメージだったんです。命の器がボディで、中に入っている血、赤い水は魂っていうイメージがずっとありました。
ーーなるほど。火にせよ水にせよ、直感的に何かを感じ取り、漠然と惹かれて撮っていたわけではなかったんですね。
野村 写真を始めた最初の頃はなんも考えていなかったけれど、作家としての活動になってからは考えていました。若さの勢いにまかせて自分の半径5キロメ-トルの範囲で共感できるものだけを撮ったのが、母方のルーツである沖縄を撮った『DEEP SOUTH』。次の『Bloody Moon』から南国の自然の生命力と女性性の生命力のような方向に。そこから『Red Water』、『赤い水』と続いて、4年前、そろそろ違うフェーズに行きたいと思って。「火」と「命」、「生きること」と「食べること」を考えたら「猟」っていう答えに至りました。それと、体に負荷がかかるフィールドワークをやろうと思ったこともあります。まだそれをやるだけの体力はありますから。