鬼畜系の弁明 ― 死体写真家・釣崎清隆寄稿「SM、スカトロ、ロリコン、奇形、死体…悪趣味表現を排除してはならぬ理由」
――過激表現は不快だとして排除されゆくポリティカルコレクトネスの時代を死体写真家・釣崎清隆はどうみるか。緊急寄稿!
90年代サブカルチャーに対する再評価の機運の中、「鬼畜系」と呼ばれる分野を否定的にとらえる動きが活発化している。あれから20年の時を経た今、鬼畜系を歴史的な汚点として確定し、一刀両断に裁こうとしている。
私は死体写真家として、鬼畜系を担った一員として、反論の声を上げたいと思う。
90年代はいい時代だった。自由な時代だった。誰が何と言おうと。
当時の私は塹壕の泥中を這いずりまわるような心持ちであったが、今あの時代を振り返ってみると、目もくらむ光芒に映る。忌々しいポリティカル・コレクトネス旋風吹き荒れる今日があまりにも息苦しい暗黒だからである。
私は、糾弾の的となっている鬼畜系の「人権意識の低い露悪趣味」を、世紀末に狂い咲いた「過激表現の春」ととらえている。
サブカルチャーの世界で、過激な性表現、グロ表現、人権思想に挑戦する諸表現の自覚的露悪が大々的に試みられ、麻薬、身体表現の解放を唱道してオルタナティヴな価値観が社会を挑発した、体を張ったカウンター・カルチャーの時代だった。
しかるに忘れてならないのは、いわゆる「言葉狩り」などの表現規制は戦後一貫して推進され、全体として言論、表現の枠が確実に狭まってきたという歴史的事実だ。70年代より80年代、80年代よりも90年代の方が不自由になった。90年代も歴史的表現規制の流れから例外的に逃れられたわけではなかったのだ。
実に90年代においても、それ以前の「放送禁止」 的表現を過剰だとしてサンプリングし、冷笑する動きがあった。それがいわゆる「モンド」ブームであった。20年以上前の60年代に制作されたイタリア製残酷ドキュメンタリー映画が、人種差別的で、グロテスク表現が過激すぎると、90年代当時の倫理観では受け入れがたいと、盛んにあげつらわれていたものだ。
まさにいつか来た道だ。
もちろんこの見方はいささか乱暴である。 一方でモンドがいわゆる「冷笑」とは対照的に、 野蛮な表現に対する原始的熱狂、オブセッションを喚起し、 実にそれは鬼畜系へも誘導された、まことに90年代的な現象であったという事実は付け加えておかねばならない。
とにかく90年代においてでさえ、タブーとなる表現が自覚されていたのである。自覚的に打破すべき対象だと見定められていたのである。
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