◾︎高校を辞めて渡った沖縄で写真と出会う
ーー後藤さんご自身について教えてください、17歳で実家を離れたとのことですね。
後藤 高校2年生の始めに学校を辞めて家を出ました。
ーー何か事情が?
後藤 高校に通ったその先が見えてしまった気がしたんです。先輩たちが学校サボってパチンコしてたりとかして、「ここでまた3年間勉強するのか……」って。一方で、近所のお兄ちゃんはトラックドライバーになって働いていて、時々助手席に乗せてもらっては「すごいなあ、僕も働きたいなあ」って思っていました。焦ってたというか、中学入学の頃に父と母が離婚し、兄は山口県の大学に進学して家を出た。母は男同様に仕事をしていたから帰宅は深夜。結果的に僕1人の時間が増えますよね。そうなるといろいろ考えますよ。直接のきっかけはケンカで謹慎になったこと。不良ではなかったけれどいろんな不満が募っていたんですね。組織的な場所が合わなかったというのもあります。
ーーなるほど。
後藤 謹慎の後に夜遊びするようになって、学校をサボりだしてから1年くらい経った時に先生に呼び出されて「学校を辞めろ」みたいなことを言われました。退学届けを出しに行く時に、母が車の中で震えながら泣き始めたんですよ。女親の本心からの涙は堪えますね。本当に悪いことをしたと思って、退学を取り止めようかとも考えたけれど、学校には辞めるって言っちゃってたから。
ーー中退後は何を?
後藤 お金を貯めようと思って友人の家族が経営していた土建屋で働いて、ある程度貯まった段階で沖縄へ行きました。
ーーどうして沖縄だったんでしょう?
後藤 中学卒業の前に兄と2人で行ったことあって。ヒッチハイクしながら巨大な米軍基地を見たり、沖縄は外国のようで、別世界だった記憶があったんです。それで沖縄に向かったんですけれど、ひどい息子ですよね。
ーーなぜですか?
後藤 母が病気で手術をした翌日に、病室で「ちょっと沖縄に行ってくる」って伝えてそのまま30年帰らなかったんだから。中退でこじれた母との関係が修復できていなかった時で、ずっと悲しい思いをさせてしまった。母は許してくれていたとは思うんだけれど、僕自身がいたたまれなくて、違うどこか、母とのことや父のことを忘れられる環境に移りたいという思いがあったんです。
ーー沖縄では何を?
後藤 地元の人に「コザなら仕事がある」と聞いて、年齢をごまかして住み込みでバーテンを。そこはベトナム戦争などを経験した世代の米兵が飲みに来る店で、みんなすごい話をするんですよ。戦場での体験とかベトコンのこととか。英語の勉強を兼ねて少しづつ話しているうちに歴史や戦争に興味が出てきて、ベトナム戦争の資料や本を漁るようになりました。そのうちに岡村昭彦とか石川文洋、その他の外国人カメラマンの写真集に出会って、「写真ってインパクトがある。こういう仕事ってすごい」と感じて、写真を撮って人に伝える仕事に関心が出てきました。高校中退で英語も話せない自分でも身体ひとつで情熱を傾けられるなら、どんな仕事でもよかったんですけれど。
ーー撮影の経験は?
後藤 たまに首里城の守礼の門の前で記念写真を撮るアルバイトをしていました。そこのカメラマンの先輩に、写真の仕事に就くにはどうしたらいいかを相談したら、先輩は3つの選択肢を教えてくれました。1つめは東京に行って写真学校に通う。2つめは、やはり東京に行って写真家に弟子入りする。3つめは現場で覚える。東京に行って一からやる気もなかったから、お金を貯めて現場に行こうと思いました。同時期に『ナショナルジオグラフィック』のカラーで戦争を撮った記事から受けた衝撃の影響もありました。ベトナム戦争は終わっていたけれど、ニカラグアやエルサルバドル、ペルーでは戦争が続いていたから、まずはL.A.に飛んで、バスでメキシコを南下してエルサルバドルへ。それが22歳の時です。