◾︎インドネシアで「写真」が撮れなくなった
ーーカンボジアではどんな仕事を?
後藤 「カンボジアデイリー」という英字新聞のカメラマンを務めながら、フリーランスとして前線に行って撮った写真をロイターやAPといった通信社に提供する生活が、内戦終結の1998年末まで続きました。その間は「写真とは何か」とか「自分は何者で何をやっていけばいいのか」みたいなことに悩みながら活動していました。そして、カンボジアでの内戦を経て、自分が変わっていたことに気づいたんです。
ーー「変わっていた」とは?
後藤 写真を撮れなくなった、というか、踏み込めなくなってしまったんです。カンボジアでは、撮りたいものがあれば、目の前に地雷原があってもその先に行けた。銃弾の飛び交う戦闘中も起き上がってシャッターを押せたから、仲間たちに「クレイジーだ」って言われていたんです。「死ぬか生きるかはその後の話で、とにかく撮らなきゃ始まらない」という思いが自分のなかにあったんですよ。でも、インドネシアでの暴動の現場では、いい写真を撮りたい思いはあったのに体が前に出なかった。
ーーどうしてそうなったんでしょうね?
後藤 仕事として割り切れなかったからだと思います。カンボジアの時には、長くいたこともあって、言葉も話せて文化も理解できた。だからこそ「この人たちとなら死んでもいい」って思うことができたんじゃないかと。インドネシアからタイのバンコクに引き上げてきた時に、ニューヨークで9.11が起きて、現地の通信社から「アフガニスタンに行かないか?」と打診があったけれど行けなかった。コーランの内容とか爆薬を巻きつけて自爆テロを起こして死ぬ若者の気持ち、それでも戦う理由が自分の中で消化できないと写真は撮れないと思ってしまったから。
ーーなるほど。
後藤 その後はカンボジアのAIDSが蔓延する地域やスリランカの戦争孤児と母親の村、インドのカシミール紛争の現場などで写真を撮ってきました。すべて人権擁護関連のコネクションからの仕事です。
ーー一周回ってスタートに戻ってきた感じですね。
後藤 そういう仕事をやっていた2011年に、母親が余命宣告を受けたこともあって、名古屋に戻ったわけです。