日本の元祖超能力者・末広千幸とは何者か? 宇宙人「ヒューヒュープクプク」、性器の大きさ当て、パラグアイで失踪…
超能力ブームをもたらしたユリ・ゲラーの登場以前に、日本では元祖超能力者とでもいうべき女性がいた。その名を末広千幸。会社経営者から占い師、霊感師、超能力者を経て、最後は信者とともにパラグアイに移住。最終的に詐欺師のレッテルを貼られた彼女の波乱万丈の人生を紹介する。
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※ こちらの記事は2019年3月13日の記事を再掲しています。
――超能力、心霊現象、UFO、など、いわゆる「超常現象」分野に深い造詣を持つオカルト研究家・羽仁礼が解説!
現在普通に用いられている「超能力」という言葉は、実は比較的新しく誕生したものだ。
日本の出版物で「超能力」という言葉を最初に用いたものは、1961年に早川書房から出版された『超能力エージェント』というSF小説らしい。
この言葉はその後、SF小説や漫画作品などで次第に用いられるようになるが、世間一般に広まったのは、1974年にユリ・ゲラーが初来日し、数多くの超能力少年少女が現れてからのようだ。
試しに日本の代表的な国語辞典である『広辞苑』(岩波書店)の古い版をチェックしてみると、1969年の第二版にも、1976年の第二版増補版にも「超能力」という言葉は見当たらず、1983年の第三版になってやっと確認できた。
ところが、ユリ・ゲラーが超能力ブームをもたらすより前に「超能力者」を名乗ってマスコミに登場し、関係書を何冊も執筆した女性がいたのだ。
超能力者・末広千幸の経歴とは!?
その、元祖・超能力者とでも呼ぶべき女性が、末広千幸(本名・馬場千幸)である。
彼女は、いったいどういう人物だったのだろうか。
彼女の著書を精査してみると、末広千幸は1942年に満州に生まれ、終戦後引き上げてきたらしい。育った家庭は比較的裕福だった模様で、大阪の名門北野高校卒業後同志社大学に入った。しかし彼女によれば、周囲が「みんなバカにみえて」中退し、東京で華書房という出版社を始めたという。
とはいえ、出版社経営は必ずしもうまくいかなかったようで、この頃、華書房のために執筆したが印税を払ってもらえなかった作家が何人もいるらしい。
会社経営に行き詰まった末広女史に転機が訪れたのは、1969年のことであった。
この年、彼女は『結婚学入門』という占い本を出した。内容は、生まれ年の十二支に基づいた性格・相性占いであるが、同時に『主婦と生活』という雑誌でも占いコーナーを担当するようになった。
さらにこの年の秋には、霊感診断室なるものを開設した。
実業家から霊能者に転じるというパターンは、大下美和子や天地瑞泉ら後世に続く自称・超能力者たちと共通するものがある。オウム真理教教祖・麻原彰晃もまた、当初は健康食品店を経営していたが薬事法違反で逮捕された後、「オウム神仙の会」を結成したという経歴を辿っている。
どんな手段を使ってでものし上がりたいと切望する人間にとっては、霊感商法や新興宗教は、先行投資のほとんどいらないベンチャービジネスと映るのかもしれない。
ただ、末広千幸の場合は、自分に本当に霊感があると信じていたようで、当時のインタビューでは、泥棒が家に入るのが事前にわかったとか、入学すべき高校が事前にわかり、ろくに試験勉強もしなかった、さらには、実物を見なくても男性器の大きさがわかるなどと豪語している。
そして1970年になると、当時の少年週刊誌『ぼくらマガジン』で「エスパー特訓道場」というコーナーを担当するようになる。このときの紹介文には、「アメリカのデューク大学でほんもののエスパーとして認定された」とあるが、この能書きは非常に疑わしいものである。
なぜなら、デューク大学の超心理学研究所は超能力者の認定など行っていないし、「エスパー」という言葉は本来SF用語なので、学術団体が公式に用いるはずはない。さらに、同研究所が日本人の被験者を用いたという記録は見つからない。
あるいはこの紹介は、末広千幸という人物の権威を高めるため、雑誌編集部が悪乗りした可能性も否定できない。ともあれ末広は、これ以後「超能力者」あるいは「エスパー」を名乗って活動し、霊感相談室を超能力開発教室と改称、当時50人ほどの受講者を集めていたという。さらに、今はなきオカルト書籍出版大手の大陸書房から、何冊か超能力開発に関する著書を出版している。
では、彼女のいうエスパーになる方法というのはどのようなものだったのだろう。
能力を発揮した、と思いきや……!?
『ぼくらマガジン』の記事を見ると、モテモテになりたければ毎日10分間好きな女の子の顔を思い浮かべるとか、健康になりたければ「僕は元気だ」と毎日大声で言う、など、いわば一種のイメージトレーニングにすぎない。
他方末広は、自分の教室では難病患者の治癒が数多く発生し、また多くの事件を予知したと豪語しているのだが、その予知能力とはどの程度のものだろう。
『週間少年マガジン』(1972年1月1日号)では、末広千幸は八星占術のマリー・オリギンとともに登場し、1972年に起きる事件を自信満々で予言している。その内容たるや、今読んでみると苦笑を通り越して大笑いしてしまう内容だ。
たとえば、石原慎太郎が4年後に総理大臣になるだとか巨人の川上監督がヨイヨイになるなどはまだよい方で、1972年には「ヒューヒュープクプク」なる異星の生物が攻めてくると、かなり確信をもって述べている。さらに、こうした多難な時代を乗り切るには、自分の超能力開発講座で超能力を「ふやす」必要があると、宣伝にも余念がない。
その直後の1974年3月、ユリ・ゲラーの初来日とともに、日本に超能力ブームがやってくる。ユリ・ゲラーと同様、あるいはそれ以上に強力な能力を発揮する少年や少女が大勢現れた。しかし、不思議なことにこの超能力ブームの中、元祖超能力者であるはずの末広千幸はまったく姿を見せなかった。実はこのとき彼女は、日本人を南米のパラグアイに移住させようと奮闘していたのだ。
では、なぜパラグアイなのか?
信者を集めてパラグアイ移住を目指すも……!?
彼女が1975年著した『新・ノアの方舟』によれば、近々日本を含む世界を天変地異が襲い、安全な場所がパラグアイだということだった。そこで、超能力教室の生徒を中心に移住者をつのり、パラグアイへの移住者を募った。もちろん希望者からは、参加費や土地購入費の名目でかなりの金銭を集めたのだ。
最終的には、60名ほどの人数が彼女の土地に移住したようで、『新・ノアの方舟』には、パラグアイに移住したという人々の喜びの手紙が実名で掲載されている。しかし、この土地は農業には不向きな荒れ地であり、しかも所有権も末広千幸のものであった。
結局、所有権を巡るトラブルもあり、一家族を除いて、全員が日本に帰国した。帰国した者たちは翌年、彼女を詐欺で訴えたが、その直後に彼女は行方をくらましてしまった。
こうして、会社経営者から占い師、霊感師、そして超能力者と、着実にグレードアップ(?)してきた末広女史は、最後に詐欺師のレッテルを貼られて社会から消えてしまった。
存命であればもう70歳を過ぎているが、どこかで静かな老後を送っているか、それとも今になってもお騒がせ女のままなのか、詳しいことは誰も知らない。
参考:『実践超能力』(大陸書房)、『超能力の原点』(大陸書房)、『超能力入門』(大陸書房)、『新・ノアの方舟』(八曜社)、『愛から愛へ』(徳間書店)、『結婚学入門』(番長書房)、『週刊ぼくらマガジン 1970年9月22日号~1971年4月26日号』(講談社)、『週間少年マガジン 1972年1月1日号』(講談社)
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