天安門での砲撃計画を企てたとして死刑に……スパイ罪で服役の日本人釈放で思い出される「毛沢東暗殺未遂『冤罪』事件」

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死刑判決を受ける山口(写真手前)

 7月1日、共産党設立記念日を迎えた中国で、スパイ罪で服役していた50代の邦人男性が釈放された。男性は2015 年5月、遼寧省丹東市周辺で中国当局に拘束され、その後、実刑判決を受けていたのだ。中国側から嫌疑の詳細は明らかにされておらず、日本政府はスパイ行為を否定しているが、いずれにせよ、生きて帰国できたことに本人は胸をなでおろしているのではないだろうか。

 15年以降、中国では日本人が相次いで拘束、その多くがスパイ罪で実刑判決を受け、現在も拘束中だが、今から70年ほど前に、一人の日本人が中国でスパイとして処刑された例もあることをご存じだろうか?

「日伊人を処刑 毛主席暗殺計画」――。1951年8月19日付の朝日新聞は、わずか数行の小さな扱いでこう伝えている。日本人・山口隆一はイタリア人の2名と毛沢東暗殺を企てた罪で逮捕され、軍事裁判を経て8月17日に北京市内で処刑されたこと以外、事件の詳細については明かされていない。

 情報の中立性はさておき、この事件について最も詳細に書かれているのは04年に中国外交部が公表した事件の調査報告書だ。以下、「江南時報」(同7月23日付)が掲載した、調査報告書を一部引用する。

<アメリカの工作員であるアントニオ・リーヴァ、山口隆一、タルチシオ・マルチーニの3人は、“十一(国慶節)”に、天安門を砲撃するため、1950年1月頃から準備に着手していた。

 当時、彼らスパイ分子たちは天安門を砲撃するための武器として、82mm型迫撃砲の使用を考えていた。外交部の資料によると、アメリカの特務機関は北京解放の直前、この82mm型迫撃砲を救援物資として、リーヴァに渡していたことが分かっている。

 リーヴァはこの迫撃砲と砲弾をそれぞれ、自宅とイタリア人司教であるマルチーニの家に分散させ、保管していた。砲撃の実施計画が決まると、山口は5月から7月にかけ天安門に何度も足を運び広場の測量を行った。

 1950年9月18日、北京市公安局は山口自らが北京代理人を務める貿易会社「日洲産業株式会社」に宛てた航空郵便物を押収した。郵便物には、タイプライターによるローマ字で日本語が綴られた書簡と、手で書かれた天安門砲撃の略図が封入されていた。略図には、華表(天安門広場にある石柱)、金水橋(天安門広場にある小さな橋)、天安門城楼などの絵が描かれており、2本の黒く太い放物線が天安門城楼の上部中央目掛けてひかれていた。この略図には「日本で買った消火ポンプは、この上部を超えるほどだ」、「今のところ水はここまで達していない」、「政府の式典の日には、政府内の実力者が天安門城楼に上がり、軍隊を閲兵し民間のパレードを見ている。以前の消火ポンプは毛沢東の位置までしか届かなかった」といった注釈が添えられていた。

 1950年9月28日早朝、中央人民政府公安部および中国人民解放軍北京市軍事管制委員会は、北京市内で山口やリーヴァなど6名の外国人を「中国共産党指導者の殺害を企てた」として逮捕した。

 北京市公安局はリーヴァと山口の自宅からも、天安門を砲撃する絵の他、82mm型迫撃砲、拳銃2丁、手榴弾8個、60mm砲弾及び各弾薬650発以上、毒薬2つ、スパイ行為に関する証明書類、中国の軍事情報、政治、経済に関する公文書の控えなどが見つかった。この中には、中国軍の軍部隊番号や幹部の名前、住所に車のナンバーに至る情報があった。

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