「人の期待を裏切るということ」精神科医・春日武彦 ― 容姿が母の期待を裏切っていると気付き始めて

【連載】猫コンプレックス 母コンプレックス――異色の精神科医・春日武彦と伝説の編集者・末井昭が往復書簡で語る「母と猫」についての話
<これまでのまとめはこちら>

 

<第12回 春日武彦→末井昭>

■■■■■漫画もどき■■■■■

末井昭さま

 今日は朝から雲が垂れ込め、しかし雨が降る気配はありません。空は灰色というよりは銀色に近いですね。何だか生暖かく、いわゆる花曇りという天気なのでしょうか。こういった春の曖昧な天候は、やはり患者さんにはあまりよろしくない場合が多いようです。胸がざわつくような、人恋しさと空虚感とが変な具合にブレンドされたような、そんなおかしな季節として実感されるようです。

 四季の移ろいに伴うようにして、机の上のマウスパッドを変えています。いえ、べつに季節に相応しい絵柄のマウスパッドというわけではないのですが、これにしたらいきなり素晴らしい原稿が書けるようになった――そんな魔法のマウスパッドとの出会いを期待して、季節毎に交換をしているのです。

 この前までは、ブリューゲルの「バベルの塔」(1563)でした。その前はアンリ・ルソーの「眠れるジプシー女」で、今はジョン・テニエルが描いたチェシャ猫のペン画です。木の枝の上でニヤニヤしている猫と、姿が周囲に溶け込んでニヤニヤ笑いだけが空中に浮いている様子が2コマ漫画みたいになっている絵柄のマウスパッドです。春とは何の関係もありませんが、微妙に雰囲気が変わっただけでも何かが期待できそうです。でも〈ねごと〉君は、チェシャ猫を目にしても何の関心も生じていないようです。

外はいい天気(撮影:春日日登美)

 猫の本能に関しては、身を隠す能力にわたしはいつも感嘆します。たとえば予防注射のために獣医に連れて行こうとします。すると〈ねごと〉君はいち早くこちらの企みを察知し、どこかに隠れてしまう。いや、消え失せてしまうと書いたほうが適切でしょう。この部屋に絶対いる筈なのに、と思っても姿が見えません。ごちゃごちゃといろんな物が置いてあれば隠れる隙間もあるでしょうに、ほぼ空っぽの部屋であるにもかかわらず、綺麗さっぱり姿を消している。推理小説ではしばしば密室殺人というのが出てきますが、鍵の掛かった部屋をこじ開けて入ってみたら被害者は血まみれで死んでいて、いっぽう犯人の姿は煙のように消失していた――本当にそんな場面に出会ったら感じそうな驚きが生じます。

 結局はドアの裏側とかカーテンの陰などに巧みに隠れているわけですが、そうした気転や智恵が猫には生まれながらに備わっている。親や仲間に教わったわけでなく、本能として身についている。そうなると、DNAには上手に隠れるためのプログラムも書き込まれているということなのでしょうか。あの見事な身ごなしが結局は塩基配列のレベルに還元されてしまうなんて、ちょっと信じられません。狩猟本能とか子育ての本能にしても、それが塩基配列に還元されるとなると、まさにミもフタもない気分になってきます。

 岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』が発刊されたのは1977年なのですね。ええと、『ウイークエンドスーパー』が創刊された年ですか。今も文庫本で生きてはいるものの、近頃の若い人は全然読んでいないようなので当惑してしまいます。ある種の古典ないしは基礎教養として読み継がれるものだと思っていたので、本当に意外です。

 岸田説によれば、人間の母性本能なんて壊れていて、だけれど「子どもが生まれたら可愛がるものだという共同幻想で、人間の母親たちは子育てをしている」と末井さんは要約してくださいました。わたしもまさにそう思います。個人的には共同幻想といったカッコイイ言葉よりは、世間から与えられた「思い込み」に背中を押されて子育てをしていると言ったほうがしっくりくるかなあ。

 末井さんのお母様について、「結核病棟という社会から隔離された場所で20代を過ごすと、その共同幻想からも隔離されてしまうのではないでしょうか」という仮説は、何だか遣る瀬ない話ですよね。昨今では家庭そのものが隔離された場所として機能しているような気すらします。もはや家庭とは、本能の壊れた者たちが肩を寄せ合って妄想を育む場なのでしょう。

 本能が壊れているという点なのですが、完全に壊れ尽くしていたり消失しているのならば、いっそ清々する。それはそれで新たな展開がありそうな気がします。問題は本能がわずかばかり残存していたり半端に機能してしまうことにあるのではないでしょうか。そうしたものが不十分かつ曖昧に介入してくるものだから、おかしな「愛情もどき」や「しがらみ」、わけの分からない罪悪感などのウエットなものが生じて人々を苦しめてはいないだろうか。

 以前、不安や不眠を訴えてわたしの外来に通っていたシングルマザーがいました。いつも幼い一人娘を連れて診察室に入ってきます。娘はいささか落ち着きに欠け、あれこれ声を上げたりうろうろしたがる。すると母のほうはバッグからお菓子を取り出し、それを次々に、ひたすら機械的に娘の口へ押し込む。押し込まれた菓子を咀嚼しているあいだは娘も大人しくなる。その光景には何か嫌なトーンがある。虐待とは言い切れないだろうし母に悪意はない。母はそれなりに娘を愛している。でも不適切な対応だろう。母親はわたしに向かって、こういう具合にお菓子を使えば娘を静かにさせられるのですよと、まるで大発見をしたかのように語るのです。手を焼いていたけれども、このような発見をしたことで子育てが楽になった、そんな自分を褒めてあげたいくらいだ、と。

 そのときは、本当に痛々しい気持ちになりました。ひとつには、そのような不適切な方法を「発見」せざるを得なかった彼女の隔絶状況がありありと想起されたからです。また、間違った方法なのにそれを発見したと喜んでしまう的外れぶりには、やはり孤立無援といった境遇が思い浮かぶ。わたしは子育てをしたこともないのですが、診療行為や執筆に関連して何かを発見したと思うことがたまにあります。が、これはまったくの独りよがりの錯覚で、無駄どころかマイナスな営みであったかもしれないなどと感じられてきて不安になってきます。さらにもうひとつ、幼い娘は中途半端な愛情とともにこんなふうに扱われ、いったいどんな大人になっていくのだろうか。いろいろと間違った発想を植え込まれて育っていきそうで、根源的な生きづらさが思いやられるのです。

 わたしの母について考えを巡らせてみますと、意外にも彼女は本能があまり壊れていなかったのではないか。そんな気がしてなりません。そして共同幻想みたいなものを疑っていた、いや嫌悪していた(おそらく世の中すべてを嫌っていたのです)。ならば素直に本能に従って(動物のように)素直に愛情深く子育てをすればいいのに、自己流の育て方と本能とを上手く折衷させないまま気まぐれな養育を行った。そうした点では、あの娘の口に菓子を押し込む母に近いところがあった。その結果として、わたしは母の愛情に対して飢餓感と暑苦しさとを同時に覚えてしまい、よるべなさと憎しみとに翻弄されてしまった。いったい自分はどんなふうに母と向き合っていけば良かったのだろう?

 愛情を希求するとともに愛情の暑苦しさに辟易するというのは、べつに珍しいことではないでしょう。けれどもそこで「希求だの辟易だのと、我が侭で自分勝手なことばかり言うわたしは悪い人間である」という反省が無意識のうちに生じて(大人はいつだって他人が悪いと思いたがるのに、子どもは自分が悪いと考えがちなのは、どうやら人間に与えられた不可解な法則、いや呪いのようです)、いつの間にか罪悪感を抱え込んでしまうというのが人生の厄介なところです。いや、この前も申しましたように、子ども時代から引きずるその罪悪感にマゾヒスティックな「微妙な喜び」だとか「生きる手応え」を見出してしまうのが不思議なところであります。ただし診察室での経験から推し量っても、そうした面倒な精神のありようは決してレアケースではない気がします。

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