「今日でお別れ」精神病院の喫煙室から始まった“特別な関係”とは?【実話怪談】
※当記事は2018年の記事を再編集して掲載しています。

作家・川奈まり子の連載「情ノ奇譚」――恨み、妬み、嫉妬、性愛、恋慕…これまで取材した“実話怪談”の中から霊界と現世の間で渦巻く情念にまつわるエピソードを紹介する。
今日でお別れ
大分県に住む私の友人、村川博さんは30代後半の頃、不眠症から鬱状態に陥り、自殺願望が高じてきたため、県内の病院に入院して精神科の治療を受けることになった。
その病院には精神神経科の専門病棟があり、そこには当時、喫煙室があった。今から数年前のことであり、現在も喫煙室があるかどうかはわからないが、その頃は10帖ほどの透明なアクリル板張りのスペースが1室設けられており、喫煙習慣のある入院患者たちの憩いの場となっていた。村川さんは愛煙家なので、入院したその日から喫煙室のお世話になり、たちまち常連になった。
当然と言えば当然だが、そこの喫煙室の常連は全員が精神あるいは神経を患っていた。奇行が目立つ患者もいたが、喫煙室に足を運んで他の患者と顔を突き合わせられるうちは、誰しも病状が軽減されている状態にあるようだった。病状が本当に深刻なら、病室から出て仲間と煙草を吸いたい気分になれるかどうか……。だから喫煙室には、暗いばかりではない、仄明るい雰囲気が満ちており、外の社会に繋がる風が(密室なので逆説的だが)吹き込んでいる感じもした。人々が集い、会話する機会があることを、村川さんは入院するまで当然のことだと思っていた。しかし、それは錯覚だった。全然あたりまえではない。喫煙者は健常者であっても、喫煙中は黙っていることが多い。心を弱らせている村川さんには、これもまたありがたいことだった。
――自分たちはここで、沈黙のうちに交流しているのだ。お互い、存在することに意味がある。たとえ会話ができなくても、だ。
この思いから、毎日、村川さんは頻繁に喫煙室に足を運んだ。
1ヶ月ほどして、村川さんが入院生活に慣れた頃、70代後半くらいに見える男性患者が入院してきた。他の入院患者はせいぜい60代で、そんな年寄りはいなかった。おまけにその老人は病棟内でただ一人、車椅子に乗っていたから、最初からひどく目立った。
何らかの麻痺性の症状によって、手足が不自由であることは一目見てわかった。左足は足台に乗せたまま、両手は膝に置いたまま、1ミリも動かせないようだった。麻痺から逃れたのは、首から上と右脚の膝から下。よく見ると、この老人は右足だけで車椅子を蹴って漕いでいた。村川さんは初めてこの老人を目にしたとき、「こんな人を、どうしてここに入院させるのだろう?」と疑問を抱いた。体が不自由で、しかもけっこう高齢者。形成外科や内科などの治療態勢が整った老人医療専門病院が相応しいように感じた。村川さんは、初対面のそのときも喫煙室で煙草を吸っていた。そこへ、老人が車椅子で近づいてきたのだった。
この人は食事や排泄も自力ではできないと思われる。しかし、そのとき周囲に介護者の姿は見えなかった。透明なアクリル壁越しに老人を見ながら、村川さんは気を揉んだ。
看護師を呼ぶか? いやいや、もしかしたら、あのおじいちゃんは家族や介護士の目を盗んで煙草を吸いに来たのかも……。だったら病室に引き戻されるのは不憫ではないか? でも健康のためには禁煙した方が……。しかし彼の心の安寧には喫煙習慣が役立っているのかもしれないし……。
その間も、老人は一所懸命、頑張って車椅子を漕いでいた。右足の爪先を前方に伸ばして、床を後ろに向かってチョイと蹴ると、車椅子が少し進む。またチョイと蹴る、またわずかに前進するが、進路が定まらない。老人が右足の爪先だけで進行方向の修正を試みはじめると、村川さんはいてもたってもいられなくなり、喫煙室を飛び出した。……入院直前の頃の彼は、会社の同僚はおろか家族とも、積極的・自発的には、接触できなくなっていたのだが。

「おじいちゃん!煙草ぉ吸いに来たんかい?連れちいっちゃろうか?」
そう話しかけ、老人の回答を待たずに、車椅子を後ろから押しはじめた。
「おお、ありがとうね!身体がこげなやけん、苦労しちょったんちゃ」
「……なんも、見るに見かねただけちゃ」
村川さんは、老人を車椅子ごと喫煙室の中まで押していった。すると、他の患者が、喫煙室の戸を黙って開けて、車椅子を入れるのを手伝ってくれた。「ありがと、ありがと」と老人は首を動かして周りを見回し、繰り返し礼を述べた。そっぽを向く者、軽く頭を下げる者、反応はさまざまだった。
村川さんは、その後はとくに老人に話しかけなかったが、お互いに心と心が緩くつながっていることを感じていた。自分だけではなく、喫煙室にいる他の患者たちの気分の変化も、なんとなく察せられた。皆が老人に対して親切にしたがっているように感じた。
気のせいかもしれなかったが、そのせいで喫煙室は彼にとり、老人が来る前よりも居心地が良くなった。村川さんは、その後も、老人の車椅子を押し続けた。
喫煙室のそばだけでなく、廊下や食堂で見かけると、どこへ行きたいのか尋ねて助けてあげた。ほとんど会話はしなかった。老人はいつも感謝してくれて、村川さんは毎度、照れ隠しに「なんも」とブツブツ応えるだけだった。
1ヶ月ほどして、老人は喫煙室で、「明日、他ん病院にうつることになったんちゃ」と村川さんに告げた。
居合わせた他の患者も皆、目を見合わせた。
「じゃあ、明日はみんなでおじいちゃん見送ろうえ?見送りてえよね?」
村川さんは皆に言葉を投げかけると、老人に言った。
「見送りに行くけんね」
老人は嬉しそうにうなずいた。
そして翌日、老人から聞いていた時刻に精神神経科病棟の出入口で村川さんが待っていると、ご家族らしい年輩の男女や看護師と一緒に車椅子に乗って現
れた。
少し驚いたことに、喫煙室の常連も全員、やってきた。
老人は村川さんを見るとパッと顔をほころばせた。車椅子を押していた看護師が空気を読んで、老人を村川さんのそばに運んできた。
「今日でお別れやなあ。あんたには本当に世話になったね。あんたは本当にいいしや!あんたが早うようなることぅ願うちょんちゃ」
「なんも。おじいちゃんも長生きしち、元気でね」
「皆さんとも、これでお別れじゃなあ。みんなが、ようなるごつ祈ります」
この老人に会うことは、もうないだろう。村川さんは、そう直感した。その途端、これまでの長いとはいえない期間のかぼそい交流がかけがえのないものだと思われてきて、涙が溢れた。
「あんたは、わしんために泣いちくるるんか。そうか、そうか……」
老人の目にも涙が光っていた。

それから3ヶ月後、村川さんは退院した。
さらにしばらくして、彼は再就職し、新しい職場に通いはじめた。そのようにして環境が激しく変化し、心身ともに疲れてくると、家に帰る前に会社の駐車場で煙草を一服するようになった。そこで気持ちに一区切りつけ、神経を落ち着かせてから帰宅するのだ。
村川さんは自家用車で会社に通勤していたから、帰宅前に煙草を吸うのは自分の車の運転席であることが多かった。
夏が過ぎ、やがて冬が近づいた。退院から1年近く経ったある日の夕暮れ、いつものように会社の駐車場で自分の車に乗り、煙草に火を点けると、前方に、あの車椅子の老人が立っていた。
そう、立っていた! 車椅子ではなく、自分の両脚で。そして村川さんの方を眺めていた。ほんの10メートルほど先から。
目が合うと、ニコニコッと微笑みかけてきた。ついさっきまで、そこは誰もいない路上であった。それなのに、老人は息も切らしていなかった。ずっと同じ場所で佇んでいたかのようだ。
「おじいちゃん! どげえしたの!?」
村川さんは慌てて煙草をもみ消して、車から降りようとした。
すると老人は、「いいえ」を表すかのように、首を横に振って、村川さんに背中を向けた。
「え?待っち……」
止める間もなく、老人は歩み去った。滑るように早い足取りだ。道なりに遠ざかり、たちまち後ろ姿が建物の陰に隠れて見えなくなった。村川さんは車を降りて後を追おうとしたが、視界から姿が消えてしまうまでは金縛りにあったように体が動かせず、動けるようになるや否や急いで追いかけたけれど、もうどうしても見つけることは叶わなかった。
ゆるくカーブした一本道で、脇道も、すぐに飛び込めるような店もないのに、老人は忽然と消えてしまっていた。
この話をしてくれたとき、「たぶん、あのとき、おじいちゃんは亡くなったんだと思います」と村上さんは言った。
そうかもしれないが、私の胸には、見たこともない老人の笑顔のイメージが残像のように今も残っている。この温かなイメージは、いつまでも消えないのではないかと思う。人の情けは死ぬことはないのだ。優しい友人に、私も感謝している。
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