本当にあった北九州の「呪われた村」の怖い話が本当に恐ろしい! 馬の首、見てはいけない岩…実話怪談「血蟲の村」!(前編)
※当記事は2019年の記事を再編集して掲載しています。
作家・川奈まり子のがこれまで取材した“実話怪談”の中から霊界と現世の間で渦巻く情念にまつわるエピソードを紹介する。
血蟲の村(前)
2019年7月現在56歳の斎川美津子さんは、北九州のとある山麓で生まれた。
そこに彼女の父方の一族が住む集落があり、一方、美津子さんの母は東北地方の出身だった。遠方から移り住んできたからであろうか、美津子さんの母は後々まで土地の暮らしに馴染めないものを感じつつも、だからこそ一族の習慣に懸命に従おうとしていたようだ。
一族の習慣とは、代々神社を支えてきた社家であるこの家ならではの、神道に沿った習わしと、杣が切り拓いたというその地域一帯に伝わる伝説と行事に基づいた、独特なものだった。
——と、ここまで書くのに、実はずいぶんと気をつかっている。「斎川美津子」という名前が仮名であり、個人が特定されづらいように注意しているのはいつものことだが、常ならば、私は地名や神社仏閣の名称などは極力つまびらかにするところ、今回はそうしていない。
なぜならば、これから綴る話は、彼女の家族にかけられた呪いと土地の邪習に関する内容であり、その呪いというのが、社家と先住者との軋轢に端を発した可能性が高いからだ。
特定の地域を差別的な目で見られるように仕向けてはいけないと自らを戒めた結果、神社の名称や集落の名前などを明かすわけにはいかなくなった次第だ。
……ただ、もしかすると北九州の郷土史や祭事にお詳しい読者さんは、この場所が何処かピンときてしまうかもしれない。
しかし、もしもわかってしまっても、くれぐれも現在のこの土地を奇異の眼差しで見ることのないように。
これは斎川美津子さんの子ども時代の話、つまり4、50年前の出来事なのだから……。
さて、どこから書こうか……。
美津子さんの母がここに来て驚いたことのひとつに、亥の子祭という秋の年中行事があった。まず、関東以北の地方では亥の子にまつわる行事を行わないことが多いし、イノコと聞いても何のことかわからない人も少なくないのだ。
西日本や九州の人々にとっては意外かもしれないが、彼の地ではよく食べられてきた亥の子餅ですら関東から北に入ってきたのは江戸時代以降で、現在もあまりポピュラーではない。
だからまず、そういう行事を行うということに驚いた。けれども、それ以上に衝撃を受けたのは、そこで唄われる唄だったのだという。
「亥の子の晩に祝わぬ者は、鬼を産め! ジャを産め! 角の生えた子を産め!」
……と、集落の少年たちが家々を巡りながら戸口で合唱するので、美津子さんの母は初めて聞いたときには震えあがってしまったそうだ。
嫁いできて、さあこれから子どもをつくろうという頃だったから、尚更恐ろしく感じたのだろう。
鬼を産め、角の生えた子を産めというのも恐ろしいが、ジャは「蛇」だろうか、それとも「邪」だろうか。いずれにしても、これ以上酷い脅し方はあるまい。
亥の子祭の夜になると、男の子たちが戸口を訪れて、この唄を大声で唱えながら、1メートルほどの長さの太縄で地面を叩くのだ。訪ねられた家の者は出ていって言祝ぎ、お菓子を手渡す。不思議と西洋のハロウィンの行事に似ているが、本来はお菓子ではなく亥の子餅をあげていたのかもしれない。
亥の子祭は地域ごとに特色があり、祝い方が様々あるという。亥の子餅は旧暦10月亥の日亥の刻に餅を食べる古代中国の縁起事に由来するとも言われ、地面を叩くのは景行天皇が椿の槌で地面を搗いて土蜘蛛族を殲滅したことを模しているとも、田の神を天に返すためとも伝えられる。
猪の多産にあやかる意味もあるというのだが、だったらこの唄は何なのだ、と、美津子さんの母は「うっかりして呪われた村に来てしまった」と後悔した。
それを聞いた美津子さんの父は、昔からやってきたことで、自分も子どもの頃にはあの唄を唄ってお菓子を貰ったものだ、と、笑って取り合わなかったとのことだ。
美津子さんの父の家系は、遥か遠い昔に、出雲からこの地にやってきた神官の一族を祖としていて、自らの一族を「宮柱」と称していた。
一般的には、神職の家は社家と呼ばれる。宮柱は、宮殿や神殿の柱のことだ。
そこを敢えて宮柱と呼ぶことから、この一族で神社を支えているのだという自負の強さを感じる。
なんでも彼らは、奈良時代前期に突然ここにやってきて、「神殿を建てる」と宣言して杣人や農民から土地を召し上げて、居ついたのだそうだ。
お陰で集落に文化と信仰がもたらされ、神道を芯とした秩序も生まれた。
一方で、彼らは、千年以上の時が過ぎても消えない恨みと、妬み嫉みを買った。
宮柱の人々は豊かで、先住者は貧しく、この格差が現代に至るまで固定されてきたからである。
その結果、宮柱の一族とそれ以外の間には、見えない壁のようなものができていたのかもしれない。
美津子さんは学校でいじめられたことはなかったが、神降ろしの巫女に選ばれて潔斎のために断食させられ、一週間、自分だけ学校の給食を食べられなかったとき、周囲の誰からも労われも同情されもしなかったそうだ。からかわれることもなかった。給食の時間になると、美津子さんの周りに透明なシャッターが下りるのだった。
教師も黙認しており、その時期は、当然のように自分にだけは給食が配られなかった。担任の先生も、飢えている美津子さんを救おうとしない。
「神降ろしは、年に一度、宮柱の家の女の子からくじ引きで選ばれるんです。くじを引き当てると神さまに選ばれた子ということになります。私は8歳から13歳にかけて毎年選ばれてしまいました。親戚に女の子が少なかったせいもあるでしょう。白羽の矢が立てられると、5月の大祭に向けて潔斎しなければいけません。大祭の前は、昼食は白湯を飲むだけで、朝晩の食事も一週間かけてどんどん減らしていき、最後は一日中白湯だけになります。お粥が重湯になり、どんどん薄くなっていくんです。おかずも野菜だけから漬物だけ、最後の方はそれも無く、本当の絶食状態まで持っていくんですよ」
この5月の大祭というのは無形文化財に指定されており、現在も行われている。五穀豊穣、悪疫退散、人畜無災を祈って、周辺地域から巨大な山笠を掲げた行列が神社まで巡幸する、華やかなイベントだ。
これを表の行事とするならば、神降ろしは裏行事で、言うなれば秘祭であり、集落の住民と社家の人々にしか知られていない。
「神降ろし用の小屋が神社の境内の外にありました。大祭の夜になると、神社から迎えが来て、そこまで連れて行かれるんです。白装束を着せられ、手を引かれて歩いていくんですが、そのときには飢餓状態でフラフラになっています。頭もボーッとしていて、なのに、五感が研ぎ澄まされて、とても鋭くなっているんですよ。特に音に敏感になって、遠くで落ちた水滴の音も聞こえました」
小屋に着くと、中で正座させられて、そこへ集落の人々が訪ねてきて、彼女に質問をする。今年の農作物の実り具合や害虫や病害について、天候についてなど、この地域住民に多い農業や林業に関する問いが多かったそうだが、中には、家族間の軋轢を解消する方法や、結婚についてなど、個人的な相談もあった。
「小学生にそんなことがわかるわけがないんですけど、そのときは、なぜかスラスラと答えられるんです。飢えと眠気で頭がぼんやりしていて、質問の内容は、よく憶えていないんですよ。ただ、なぜかちゃんと答えていたという記憶はあります」
この神降ろしは一晩中続けられ、朝になると終わる。
質問者は果物やお菓子などを持参してきて、美津子さんが座っている小屋に捧げていくから、夜明け頃には小屋はごちそうだらけになった。
「すぐにも食べたかったんですけど、胃が小さくなってしまっているので、重湯から始めて3日ぐらいで元の食事に戻すんですよ」
子どもにとってはかなり辛かったはずだが、美津子さんは、「宮柱の子だからやらなければいけないという使命感がありました」と話した。
「それに、母がとても厳しかったんです!」
美津子さんの母は、他所から来て最初は亥の子祭の唄に慄くなど、地域の習俗に違和感を覚えていたが、次第に、決まり事については非常に厳格に守るようになっていったようだ。
「夜に見てはいけない岩を見てしまったときや、入ってはいけない山で遊んだときなどは、それはもう、物凄い剣幕で母に叱られました」
夜に見てはいけない岩というのは、ちょうど美津子さんの家のすぐそばにある崖から突き出した巨岩で、それ自体、不思議な奇観を呈していた。
崖の頂き近くに、異物をくっつけた、もしくは生え出したような格好の大きな岩があって、その上部は大人が3人ぐらい立てるぐらいの平らなスペースになっているのだ。自然に造られたステージのようなようすだが、下は深い谷底で、断崖絶壁を上り下りするわけにはいかないから、岩に乗るなら山側から行くしかない。しかしそれもとても危険で、誰も近づかなかった。
そんな岩が、偶然ちょうど、美津子さんの部屋の窓からよく見えた。
小学校にあがる頃になると、夜になっても子ども部屋で起きていることもある。好奇心も強くなり、親に逆らうことも覚える。
「あの岩は、昼間はいいけれど、夜になったら決して見てはいけないよ」
物心つく頃からずっとそう諭されてきたけれど、6歳にもなると「どうして?」と訊き返すようになった。ところが、両親はその質問には答えてくれない。だからますます興味をそそられてしまった。
そして、ある晩、とうとう美津子さんは子ども部屋の窓から岩を見てしまったのだった。
最初は何もなかった。群青色の夜空に黒々と岩のシルエットが浮き出し、山の樹々が夜風に梢を揺らしている……。
と、突如、岩の上にとても小柄な、おそらくは自分と同じぐらいか幾つか小さい子どもであろう人影が立った、と思うや否や、飛び降りた。
下は断崖絶壁だ。落ちたら死んでしまう!
「お母さぁん! たいへん、たいへん!」
美津子さんはすぐさま母のところへ駆けていって、岩から子どもが落ちたことを報告した。
すると母はたちまち憤怒の形相になり、美津子さんの頬を平手で叩いた。
「なんてことを……! 見るなと言ったのに! あれを見たら、次にあそこから落ちるのは美津子、あんたなんだよ!」
そう言って泣き崩れ、美津子さんを抱きしめたのだが、美津子さんは平手打ちされたショックが大きく、混乱して泣くばかりだった。
――実は、昔、この辺りでは飢饉になると、口べらしのために子どもをあの岩から落として殺していた。そのためあそこには呪いがかけられ、夜になると子どもの影が岩から落ちる。
その影を見てしまった子どもは、その翌日の夜になると、岩から落とされて死んでしまうのだ。
だから子どもは絶対に、夜にあの岩を見てはいけないのだという――。
「……そういうことは、お祓いが済んだ後で聞かされたんですよ。母が泣きながら父を呼び、話を聞くと父は真っ青になって神主さんに連絡しました。それからすぐに私を抱きかかえて神社に連れていってお祓いしてもらったんですが、そのやり方が普通ではなくて……。
まず、両親と神主さんとで、怯えて厭がる私を、境内にある小さなお宮に押し込みました。窓が無くて、広さは一畳ぐらいでした。床の隅にひとつだけ排泄用の穴があって、あとは食べ物や飲み物を入れるための小さな出し入れ口があるだけです。潔斎や何か、修行のためのお宮なんでしょうか? 神降ろし用の小屋とは、場所も作りも違います。
その夜は、そこで祓い串を頭のまわりでバサバサと振り回されながら祝詞が唱えられ、太鼓がドンドン打ち鳴らされて……。他の神職の方たちもやってきて、大騒ぎですよ。その時点ではまだ岩の由来も知らされていなかった私には、わけがわかりませんでした。怖くて怖くて、泣いているばかりで……」
美津子さんは、その狭い小屋のようなお宮に三日三晩監禁された。
「母がときどき訪ねてきて、来ると壁を叩いてくれるんです。私も叩き返して、壁越しに会話したり、食事の間は壁の向こうにいてくれたりして、それだけが救いでした。あとはずっと、後悔しながらシクシクべそをかいていました。夜になると電気がないから真っ暗闇です。しかもお蒲団もないし、座布団すらない、板敷きの床で、お風呂も入れないわけですよ……。今なら児童虐待って言われちゃいますよね? でも当時は両親も神主さんも真剣でした。本気で私を救おうとして、そのために閉じ込めたんです」
——魔に攫われないように。
それからしばらくして、美津子さんが10歳の頃に、山の分校に通っていた男の子が、岩から落ちたと思しき遺体で発見されるという事件があった。
その子の自宅はこの近所ではなく、徒歩圏内ではあるが少し離れており、そもそも子どもが何の装備もなしに、ましてや夜、あの岩に登るのは難しいはずが、深夜、ひとりで登って落ちたとしか思えない状況で、見つかったときはすでに無惨な姿で事切れていたとのことだ。
夜に、岩から落ちる子どもの影を見てしまったのだろうか……。
集落の近くには、行ってはいけない山もあった。そこには「馬の首」という物の怪が出没すると言い伝えられ、人々から恐れられていた。
「この界隈の杣人や農民は、戦国時代に落ち武者狩りをしたそうです。落ち武者を捕らえると報奨金が貰えたとか……。落ち武者の持ち物を奪ってもお咎めがなかったし、殺してしまっても構わなかったので、気の荒い連中はみんな、落ち武者狩りを熱心にやったと言われています。馬の首は、馬を持っている落ち武者を捕らえるたびに、馬を殺して食べていたところ、落ち武者の祟りで荒縄で吊るした馬の首が山沿いの川辺に現れるようになったというものでした」
一種の妖怪のようだが、実際に、馬の首を斬り落として、川岸で食肉として処理したときの景色がこれの原型になっている節もある。
美津子さんが7歳のときのことだ。
8月のお盆の時季だった。夏休み中で、閑を持て余した美津子さんは炎天下の川べりでしばらく遊んでいたが、川の水もぬるま湯のようで涼をもたらさず、しばらくすると暑くてたまらなくなってしまった。
日陰を探して周囲を見回すと、川の向こう岸の山が目に入った。
そこは「足を踏み入れてはいけない」と日頃、母から厳しく戒められている山だった。馬の首という化け物が出るというのだ。馬の首と落ち武者殺しの言い伝えを聞いたこともあり、そのときは怖いと思った。
しかし、山の傾斜は緩やかで、ほどよく樹々が生えていて、下生えがほとんどなく、歩きやすそうな日陰の地面が上の方まで続いているのが見えた。風が木の梢を揺らしていて、腐葉土が敷き詰められた地面は陽に晒された川原と違って、ひんやりと涼しそうな気がした。
何も山の奥深くまで分け入ろうというのではない。麓のところで少し木陰を散歩するくらいなら、大丈夫なのではないか……。そう思いながらあらためて川の向こう岸を眺めると、薄暗く翳った山の地べたがますます涼しそうに見えてきた。
それにまた、行ったことがない場所だという点にも魅力を感じた。
酷暑の最中で川は水量が減って川幅が痩せ、いちばん深いところでも美津子さんの脛ぐらいのものだった。辺りには誰もいない。
美津子さんは、思い切ってザブザブと川を渡った。
山の木陰に入ると、期待以上に涼しかった。
温度の低い風が絶えず吹き、地面からも冷気が上がってくる。
嬉しくなって、ゆっくりと樹々の間を縫って登っていった。迷子になるといけないので、ときどき後ろを振り返って川の位置を確かめながら、のんびり歩いた。
100メートルも歩いたか、どうか。
山に入ってから少し経ったとき、突然、傾斜の上の方から、「チリン」と澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
見上げると、何かがこっちに向かって転がり落ちてくる。
ゆるい傾斜だから、そんなに速くはない。それにまた、それはいびつな形をしていて転がりやすそうなものでもなかった。栗色をした何かが、ゴロリ、ゴロリ、と人が歩くような速度で転がっているのだ。
転がるたびにチリン、チリン、と、鈴の音がしている。
鈴の音と共にだんだん美津子さんに近づいてきて、間もなく、それが何か、明らかになった。
馬の首だ!
栗毛の馬の、首から上だけが、山の斜面を転がり落ちてきたのだ。
チリンチリンと、なぜか鈴の音をさせながら、ゴロリ、ゴロリと転がって、それはとうとう美津子さんの足もとまで来た。
目が生きていた。
艶のある澄み切った黒い瞳が美津子さんを一瞥した。
そしてまたゴロリと転がって、麓の方までゆっくりと落ちていった。
唖然として見送ったあと、我に返って、美津子さんは馬の首が行ったのとは違う方向に山を駆け下って、家に逃げ帰った。
「あら、おかえりなさい。暑かったでしょう?」
出迎えてくれた母に、叱られるのを覚悟の上で今見たものを打ち明けようしたのだが。
「あのね、お母さん、今ね……クッ!」
言いかけた途端、喉の輪がギュッと閉じる感覚があり、声が出なくなった。
馬の首以外のことは普通に話せた。しかし馬の首を見たことを告げようとすると声が出ない。
この状態が、それから何年も続いた。中学生になってから、ようやく母に話すことが出来た。
母は「山に行ったらいかん言うただろ!」と美津子さんを激しく叱りつけた。
それはもう凄い剣幕だったと美津子さんは言う。
「母の生家は、巫女の家系なんだそうです。北国から九州の田舎に来て、習慣などの違いに戸惑うことも多かったでしょうし、だからこそ馴染もうと努力したのでしょうが、基本的に母も神秘的なことを信じる性質で、少し霊感も持っていたので、伝説や古い掟に親和性があったのでしょう。
呪われた場所と言えば、鎧畑と呼ばれる辺りも落ち武者の霊が出ると言われて恐れられていました。昔、この辺りの住人たちが殺した落ち武者の鎧をそこに埋めたのだそうです。私が遊んでいた川も心霊スポットだと言われていました。そんな土地だから、私が幼稚園や小学校に通っている頃、母は半分冗談で「ここは呪われた村だ」なんて言っていましたっけ……。
でも、当時は、母をはじめ私たち家族は誰も、まさかうちがあんな形で呪われることになるとは思っていませんでしたよ。
はじまりは私が中学1年生のとき。両親が、それまで住んでいた家のすぐ近所に新しく家を建てることにしたのです。完成したらそちらに引っ越すことになり、みんなでとても楽しみにしていました。
……いえ、本当のはじまりは、千年以上昔に私たちの先祖が来たときかもしれません。
杣とお百姓から土地を奪って、神殿を築き、この地に根をおろしたときから、積み重なってきたものがあったのでしょう。
それにしたって、チムシの呪いをかけるなんて、あんまりです」
「チムシ? どういう字を書くのですか?」
「血液の血と蟲だと母から聞きました。では、血蟲の呪いの経緯を、これからお話ししますね……」
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