修道女が生んだ「未知の言語」、幻視の聖女ヒルデガルトが遺した1011語の謎

中世ヨーロッパの修道院で、たった一人の女性が、誰も見たことのない言語をゼロから作り上げていた。
その主は、幻視の力で知られるベネディクト会の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年生まれ)。彼女が遺した文書には、1000を超えるオリジナルの単語と独自の文字体系が記録されているが、本人はその目的を生涯語らなかったという。
1011語の単語帳と、独自文字「未知の文字」
ヒルデガルトが生み出したこの言語は「Lingua Ignota(リングァ・イグノータ、”未知の言語”の意)」と呼ばれている。
現存する記録によれば、この言語は1011の単語から構成されているという。単語は神や天使を指す言葉から始まり、次第に人間や動物、植物といった様々な存在の名称へと広がっていく構成になっているとされる。
たとえば「神」は「Aigonz」、「悪魔」は「Diuueliz」、「壮大な」は「Orzchis」といった具合だ。ラテン語やドイツ語の要素を部分的に取り入れながらも、既存のどの言語にも属さない語彙が並んでいる。
さらにヒルデガルトは、専用の文字体系「Litterae Ignotae(未知の文字)」も考案した。23種のシンボルからなり、ヘブライ語やギリシャ語を思わせる特徴を部分的に含みながらも、全体としては彼女独自のデザインだったとされている。
彼女がこの言語を実際に使った記録として現在知られているのは、「O Orzchis Ecclesia」という一篇の歌のみだ。ラテン語の歌詞の中に、自作の単語が散りばめられた構成になっているという。

なぜ生み出されたのか、割れる研究者の解釈
1000語を超える語彙と専用の文字まで用意しながら、ヒルデガルトはその目的を記録に残さなかった。そのため研究者の間では、複数の仮説が並び立ったまま決着していない。
有力な説の一つが、修道女同士だけで通じる「秘密の伝達手段」として作られたというものだ。外部に漏らしたくない情報を仲間内だけで共有する必要があったのではないか、という見方である。
一方で、教会への批判を隠すための暗号だったとする説や、万物に宿るとされる神聖性を的確に描写するため、既存の言語では足りず新しい体系を必要としたとする説も唱えられている。
さらに大胆な仮説としては、天使と直接言葉を交わす「交信用言語」だったとする説、旧約聖書のエデンの園でアダムが話していたとされる人類最初の言語を再現しようとした試みだったとする説まで存在する。
いずれの説にも一定の説得力があるものの、決定打となる証拠は今のところ見つかっていない。

現存最古の人工言語、答えを語らぬまま眠る記録
これらの記録は、彼女の晩年にまとめられたとされる文献群「リーゼンコーデクス(巨大な写本の意)」などに収められ、現代まで伝えられてきた。
この言語は、現存する記録の中では最古の人工言語として位置づけられている。ヒルデガルトは1179年に没しているため、19世紀に考案されたエスペラントよりも、少なくとも700年以上先んじて誕生していたことになる。
中世の修道女が、なぜこれほど体系立った独自言語を必要としたのか。神との対話のためか、人間同士の秘密を守るためか、真相はヒルデガルト自身が語らなかった以上、今後も確定しないのかもしれない。
それでも、900年近く前に生きた一人の女性が、既存の言葉では足りないと感じ、新しい言語体系をゼロから作り上げたという事実そのものが、十分すぎるロマンをたたえている。
参考:Mental Floss、ほか
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