【春日武彦×末井昭の新連載】悩める精神科医が「猫と母にまつわる不可思議なコンプレックス」に迫る!魅惑のニャン写真アリ

【新連載】猫と母――異色の精神科医・春日武彦と伝説の編集者・末井昭が往復書簡で語る

「母と猫」についての話

<第2回 春日武彦→末井昭>

■■■■■鼻ちょうちんや巻き舌のこと■■■■■

末井昭さま
 ご無沙汰しております。荻窪の本屋Titleでのトークイベントから、もう1年3ヶ月も経ってしまったんですねえ。あのときはお客さんの大多数が女性で、男性は2名くらいしかいなかったのに驚きました。内容はことさら女性向きに特化したものではなかったのに。末井さんのイベントでは、いつも女性が集中するんでしょうか。猫も自然に寄ってくる体質のようだし、何だか羨ましいです。

 わたしは9月に69歳となりましたが、今年は初頭からろくなことがなく、喩えて申せば「道を歩いていたら頭の上からコンクリートブロックが落ちてきた」ような目にばかり遭っています。天罰を受けるほどの悪事に手を染めた憶えは全然ないのですが、えてして嫌なことは立て続けに生じるのが銀河系宇宙の法則のようなので、弱り目に祟り目なのも仕方がないのでしょう。夏には右膝に激痛が生じ、整形外科を受診したら、変形性膝関節症と診断されました。老人の病気と思っていたものが自分に生じるのは、実に嫌なものです。テニスボールを挟んで膝の関節を曲げるといいと健康雑誌に書いてあったので、アマゾンでテニスボールを注文しようとしたら、テニスボールと同サイズだけど弾力がもっと理想的な変形性膝関節症用贋テニスボールがあるのを発見して、そちらを買いました。

 自分以外にも同じ症状で困っている人が沢山いて、いろいろな工夫が生み出されてくるのが世の中なんだなあと、妙なところで元気づけられました。

 いずれ「弱り目に祟り目」も終結するでしょう。こうして末井さんと往復書簡をスタートできるのも、おそらく運勢好転への布石なんじゃないかと思っています。

 

 コロナの緊急事態宣言が発令されているあいだも、勤務先の病院には出向いて外来診察を続けていました。患者さんたちのフォローを怠るわけにはいきませんから。行き帰りの電車がものすごく空いていたのは嬉しかったです。清々しいほどでした。

 コロナ騒ぎが精神科の患者さんたちにどんな影響を与えるのだろうとやや心配していたのですが、意外にも変化は少なかったですね。妄想の中にコロナが組み込まれるとか、コロナへの不安からパニックや錯乱に陥るとか、そういったケースはほぼなかった。それよりも、たとえば慢性期の統合失調症の患者さんで、生活保護を受けながらひっそりと独り暮らしをしてるような人が結構いるんですが、マスクが入手困難だと騒ぎになっていた時期でも、何とか手に入れてちゃんとマスク姿で来院するんですね。生活者としての逞しさに近いものを見たような気にさせられて、ちょっと感動したものです。

 ただし、コロナによる業績悪化とかリストラとか倒産とか、そういったことから心が折れたり、あるいは閉塞状況による苛立ちからDVだとか依存症がエスカレートしたり、厭世的な気分が募っていったり、そんなふうに精神科とつながる以前のところで深刻な状況がどんよりと広がっているようです。激痛というよりは鈍痛なので、みんな黙って堪えようとしてしまうのかもしれません。

 

 勤務先では検査センターを作ったので、医師とスタッフは2週間に一度PCR検査を受けることになりました。鼻の穴の奥へ綿棒みたいのを突っ込み、ぐりぐりと掻き回して検体を採取するのですけれど、あれはなかなかしんどいです。プールで鼻に水が入ったときの痛いような気持ちの悪さの延長にある「しんどさ」ですね。

 鼻の穴からの連想なのですが、うちの猫の〈ねごと〉君は、直径8ミリくらいの泡というか「鼻ちょうちん」をマンガさながらに鼻から出して眠っていることが時々あります。まさに屈託のない姿といった感じで、こちらの顔がほころんできます。あれって珍しいことなんでしょうか、猫の鼻ちょうちんは。それともありふれた出来事? いつも、「写真を撮っておけばよかったなあ」と後悔します。

不審そうな〈ねごと〉(写真:春日日登美)

 我が家は古いマンションの3階ですので、野良猫だか放し飼いの猫がひょいと立ち寄ったり迷い込んでくる、なんてハプニングがありません。寂しいものです。これじゃあなかなかドラマが生まれない。

〈ねごと〉君は、家の中に幽閉されているようなものなので、ときどき心が痛みます。せめてなるべく居心地が良いようにと心掛けているのですが、そういった配慮には「当然」といった顔をしていますね。冬に床暖房の利いた部屋で〈ねごと〉がごろごろしていたりすると、恩着せがましく「野良猫さんは寒いどころか食べ物もないんだよ」などと言って聞かせるのですが、完璧に無視されます。

 人間相手だと、恩着せがましいことを言う奴は絶対嫌われますよね。そこで、あえて〈ねごと〉を相手に偽善モード全開、無神経で横柄な親切の押し売りをしてみる。無視されても平然と押し売りをする。猫としてもいい迷惑でしょうが、こういった恥知らずなことを自分以外誰もいない(でも猫だけはいる)家の中でするのは、いかがわしさの快感みたいなものがあってちょっと楽しいです。と、こうやって書いていると、オレは猫にひどいことをしているなあと気まずくなってきます。今度から、「うるせーなー」と思ったら引っ掻いてもいいよと言い添えてみるつもりです。

 わたしたち夫婦も子どもはなく、猫がいることでやっとバランスがとれているようなところがあります。猫は鎹(かすがい)、といったところでしょうか。妻は手術室勤務のナースで、病院にはERがありますから、しばしば夜が遅くなる。いっぽうわたしのほうは、朝が早くてそのぶん帰宅も比較的早い。こちらは完全に朝型のライフスタイルで、普段は夜寝るのが20時前といった調子なので妻と擦れ違いがちなわけです。そんなギャップを〈ねごと〉君が埋めてくれている気配があります。

 妻はオモチャをあれこれ持ち出して積極的に猫と遊びます。ときには猛獣使いみたいにして猫と戯れている。しかしわたしは不精者なので、何となく猫と一緒にいるだけで十分ですしそれ以上のことをする気がない。猫のほうも、「ちゅーる」を貰う以外にはわたしに期待していないようです。たぶん〈ねごと〉君はわたしを退屈な奴と思っていることでしょう。いや、ときおり恩着せがましいことをくどくど言ってくるわけですから、鬱陶しい奴と思っているのでしょう。

 でも、とにかく猫と同じ屋根の下にいるのがとても嬉しい。ちょっと距離を置いているほうが、そのもどかしさが余計に心地よさにつながるような気がします。

 先代が〈なると〉、今いるのが〈ねごと〉というわけですが、どちらも産地は同じです。妻が三重県の松阪出身でして、そこから車でちょっと行ったところ、多気町という田舎です。そこに彼女の親戚が住んでいて、近くには本楽寺という浄土真宗の寺があります。樹齢400年以上の異形の銀杏が自慢の寺で、ここの境内に捨て猫だか野良猫だかが何匹もいます。寺の大黒が餌をあげているので、猫も半分居着いた形になっているようです。

 我が家の猫は、そうした境内猫をもらってきたものです。何となく阿弥陀如来の加護でも受けているようで有り難い。妻の運転する車で連れてきたので(わたしはそもそも運転免許を持っていないので、助手席でキャリーを膝に抱えている係でした)、いわば産地直送といったところでしょうか。ですから猫にとっては、境内の周囲と拙宅の家の中、それが知っている世界のすべてとなります(あ、獣医さんの診察室もありました)。鼻ちょうちんですやすや眠っているときには、本楽寺周辺の鄙びた景色が頭の中に浮かんでいるのかなあ、なんて想像してしまいます。

 ところで〈ねごと〉君は、妙な鳴き方をすることがあります。テーブルや棚に跳び乗ろうとしたり、ダッシュで部屋を走り抜けようとしたりする際に、意を決したように、あるいは感極まったような調子で、「にゃるるるるる」と早口で鳴く。巻き舌で鳴いているみたいなんですよ。ちょっと威勢が良いようにも聞こえるので、「ウチの猫は江戸っ子だなあ、巻き舌で鳴くぜ」などと妻と話しております。三重県生まれで武蔵野市在住の江戸っ子が、我が家の茶トラ〈ねごと〉君という次第です。雌ではあるのですが。

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