罪悪感は生きる手応え? 精神科医・春日武彦が自らの「罪悪感と人生の関係」を分析して見えてきたもの

 今こうして思い返しますと、前々回述べましたように母は台所の流しで手紙を燃やしていたことがあり、いっぽう息子は同じ台所の流しで紙幣を燃やして文学的気分を経験しようと試みていたのでした。他人からすれば「だからどうした」となりましょうが、当方としては何だか馬鹿馬鹿しいような、あるいは痛々しいような奇妙な感情に囚われるのです。なぜか大船の真っ白な巨大仏を、東海道本線の電車の窓から無言のまま眺めているような気分になってきます。

 前回、末井さんのお母さんがダイナマイト心中を遂げた際に「オレを見捨てやがって! オレよりもあんな男のほうが大切なのかよ!」と怒りに駆られたりはしなかったのかとお尋ねしました(わたしだったらそう感じるに違いないからです)。それに対しては、お母様が結核を患っていたがために感染を避けるべく母子での接触そのものが制限されていた。つまり、見捨てられたと感じるだけの愛着関係は育ちようがなかったので怒りになんか駆られなかったという意味のお答えでしたよね。

 なるほどそういうものなんだなあと納得すると同時に、精神科医の立場としましては、紆余曲折や苦労はあったにせよ、よくもまあ末井さんが「まっとうな」生活に着地したものだと正直なところ意外に思ったりするのです(すいません、失礼なことを申して)。世の中に対する信頼感とか、ある種の楽天性とか、そういった要素が培われるためにはきわめて不利な成育史だったように見受けられ、それこそパーソナリティー障害のとんでもないオヤジになっていてもおかしくなかった気すらするのです。

耳が立っている (撮影:春日日登美)

 人間の心の可塑性・柔軟性といったものは実に全く個人差が大きく、いかなる過酷な成育史というストーリーがあっても、「だからこうなった」という場合もあれば「にもかかわらずこうなった」という場合もあり、いやはや当惑せずにはいられません。苦労が心の糧となる人もいれば、同じ苦労で心が荒廃したりねじ曲がってしまう人もいる。

 昔、学術雑誌でとんでもない症例報告を読んだことがありました。昭和40年の晩秋に、某片田舎で、中年の男が新聞の集金を持ち逃げして逮捕されました。それを契機に、三人の実子(14歳の長女、12歳の長男、10歳の次女)を約10年間、自宅に幽閉したまま両親以外との対人接触を一切させてこなかったのが発覚したというのです。

 そのような隔絶した環境下で、いったい子どもたちは精神的にどのようになっていたのかというのが報告の主眼でした。父は精神疾患ではなく、ただし当時の名称では「意志薄弱性精神病質」とされました。最初は長女がいじめを受けるのを病的に恐れて家の中に閉じ込め、その延長で露見を避けるためになし崩し的に長男・次女をも幽閉するようになったらしい。ただし父はテレビや百科事典、児童書などは買い与え、また寓話なども話して聞かせていたらしい。母親(内縁)は少々知能が低く、家にはあまり寄りつかなかったようです。

 児童相談所に保護された当初は、子どもたちは三人とも表情がなく情緒的な反応にも乏しく、空虚な印象さえ与えたといいます。しかし施設で暮らすうちに、次第にみずみずしさが生じてきたらしい。三年後においては、長女は市内の医院に住み込みで働くようになり、長男は成績優秀で県立高校進学を目指し、次女はまだ施設にいるものの普通に生活ができている、とのことでした。考えてみれば長女はわたしと年齢が同じ筈で、そうなると三人の幸せを真剣に願わずにはいられなくなりますし、人の心って想像していた以上にフレキシブルなんだなあと感心せずにはいられません。

 でもその一方、この程度の逆境でこんなふうになってしまうのかと考え込んでしまいたくなるような人もいるわけで、人の心に小賢しげな理屈は通用しないものだと痛感する次第です。

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