「美しすぎる母親」をもった精神科医を襲った“美醜の苦悩”! 蘇る母の性的な記憶とコンプレックス

 母についての思い出って、やはり断片的になりますよね。わたしも三つばかり書いてみることにします。

 まず耳の件です。母は耳を動かすことができました。それを知ったのは十歳頃だったでしょうか。我が家に友人が来て一緒に遊んでいたら、紅茶かジュースを持ってきてくれた母が、いきなり自分は耳を動かすことができるのよと言い出しました。わたしはそれまでそんな事実を知らなかったので驚きました。友人も耳を動かせる人には会ったことがないようで、わたしと顔を見合わせることになりました。なぜ母がそんなことを言い出したのか、理由が分かりません。彼女なりのサービスだったのでしょうか。

 母は横を向いて座りました。髪を持ち上げて左耳だけをこちらに見せます。「じゃ、動かすわよ」と彼女は告げ、しばらく無言のままじっとしていました。「こめかみ」に力を入れていたようです。するといきなり耳がぴくぴくと痙攣するように動きました。おお、凄い! 友人は感心しつつ「あのお、今、反対側の耳も動いていますか」と尋ね、母は自信のこもった声で「もちろん」と答えました。まあそれだけのことで、以後、わたしは母が耳を動かすのを見たことがありません。どのくらい特別な能力なのかも分かりません。

 髙野公彦の短歌に、こんな作品があります。

 うさぎの耳、ポケットの耳、パンの耳 さびしき時は耳を思へり

 しみじみとして好きな歌なのですが、ここに「母の耳」も付け加えたいところです。わたしも耳を動かすことができたなら、彼女と自分とがつながっている実感をもっと持つことができたのかもしれないと思え、ちょっと残念です。

正月飾りは攻撃対象(撮影:春日日登美)

 次は猫舌の件です。歌手の美輪明宏は1971年まで本名の丸山明宏で活動をしていました。そんな彼がまだ丸山姓の時です。母が彼に関する逸話を語ってくれました。

 幼い頃の丸山明宏は結構裕福な家で育っていました。そして彼は猫舌の傾向があった。つまり熱いものが苦手だった。したがって味噌汁もなかなか飲むことができない。すると親切な女中が味噌汁をふうふうと吹いて冷ましてくれる。その行為自体は有り難いのだけれど、彼女には口臭があった。だからその女中が味噌汁を吹いて冷ましてくれるのが有り難迷惑というか生理的に我慢ならなかったらしい。

 あるとき、外出先でどこかの紳士と食事を摂ることになった。幼い丸山が猫舌らしいことに気付くとその紳士は店の者に空っぽのお椀を持ってこさせました。そうして二つの椀に、交互に味噌汁を移して冷ましてくれました。そのクールでさりげないやり方に丸山は心を掴まれ、それが女性よりも男性を恋愛対象にする契機となったというのです。

 どうしてそんなエピソードを母は知っていたのでしょう。いやそれよりも、なぜそんな話をわたしにしたのでしょうか。わたしは中学生だった筈ですが、親切だが鬱陶しい態度とクールでスマートな態度との対比は理解できました。ただ、それが同性を愛する行為に結びつくあたりがいまひとつ分からない。何らかの含みがあって母はわたしに語ったのか、それともたんに面白いと思って語ったのか。いまだに謎のままです。でも彼女が好みそうなエピソードである気がしないでもありません。

 最後は、燃える手紙の件です。これはわたしが小学校高学年の頃だったかな。教師が研修会に参加するとかでいつもより早めに帰宅しました。季節は春だったと思います。台所に足を踏み入れようとしたら、流しの前に母が立っていました。その後ろ姿をわたしは目にしたわけです。窓からは明るい陽が差し込み、台所は黄色っぽい陽光にあふれていました。母は春らしい服装でした。エプロンはしていなかったので、炊事をしていたわけではない。では何をしていたのか。

 後ろ姿とはいえ、わたしは斜めの位置にいたので母の手許が見えました。彼女は流しの上で手紙を燃やしていたのです。ブルーブラックのインクで文字を連ねた便箋が、めらめらと燃えています。陽光に満ちているので、便箋を燃やす小さな炎はほとんど目立ちません。便箋だけがみるみる反り返り、黒ずんで消えて行くのでした。母はわたしがいることに気付いていましたが、何も喋らず、また手紙を燃やしていることに弁解だの説明はしませんでした。こちらから尋ねることなど許されないような拒絶的な心情が背中の表情から窺えました。

 便箋も封筒も完全に燃やし、あとは蛇口の栓をひねって燃えがらを下水に流してしまいました。それだけです。あの秘密めいた振る舞いは何であったのか。推測すると、母に一方的なラブレターが送りつけられたのではないか。そう考えるに足る人物がいたのを知っていたので、たぶんそれが正解だと思います。しかしそんなことはどうでもいいのです。わたしとしては、明るい光の中で、その光に溶けてほぼ無色透明になってしまった炎が便箋を焼き尽くしていく光景が母の後ろ姿とともに、実に美しいシーンだったなあと思わずにはいられないのです。秘密という隠し味が加わって、陶然としてきます。

 という次第で母にまつわる思い出の断片を書いてみました。頭に浮かんだ順に書いてみたのですけれど、「耳の件」も「猫舌の件」も「燃える手紙」の件も、いずれも性的な意味が見え隠れしているようで複雑な気分になります。マザーファッカーにでもなったような。とは言えど、こういった話を書き綴るのは楽しくて仕方がありません。もしかすると、母に認めてもらいたい、褒めてもらいたいといった強迫的な気持ちとは無縁のエピソードだからかもしれません。

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